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自然の摂理から生まれた学問である日本古学を「清風道人(せいふうどうじん)」が現代と未来に伝えていきます。
日本古学から学ぶ「自然の摂理」と「日本古来の精神」が次の豊かで健やかな世界を創るヒントとなることを願って。
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#00431 2016.8.24
『本朝神仙記伝』の研究(49) -原隼人佐-
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原隼人佐(はらはやとのすけ)は諱(いみな)を昌勝と云ふ。父は原加賀守(かがのかみ)、母は秋山伯耆守(ほうきのかみ)の妹なり。代々甲斐国に住みて、武田家譜代の従臣たり。
始め父・加賀守、伯耆守が妹を娶(めと)りしかど、久しく子を孕(はら)むこと無かりしに、ある時たゞならず煩ひ出しければ、医師を頼みて様々に治療すれども効験無し。 ある人、
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#00432 2016.8.30
『本朝神仙記伝』の研究(50) -天野三郎兵衛康景-
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天野三郎兵衛康景(あまのさぶろうひょうえやすかげ)は、徳川家康公に仕へて功労有りし人なり。嘗(かつ)て家康公、三河国に在りし時、制法を定め、高力与左衛門清長(こうりきよざえもんきよなが)・本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)・天野三郎兵衛康景の三人を以て三奉行とせり。
その頃、世人の諺に「仏高力、鬼作左、とちへんなしの天野三郎
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#00433 2016.9.5
『本朝神仙記伝』の研究(51) -一路居士・道観・善輔-
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一路居士(いちろこじ)はその姓氏を詳らかにせず。和泉国堺に住める隠士にして、僧・一休と同時の人なり。ある日一休、一路に問ひて、「万法皆道あり。如何にぞこれ一路とは云ふぞ」と云ひければ、一路これに答へて、「万事皆休すべし。如何にぞこれ一休とは云ふぞ」と云ひけるとぞ。
一路、嘗(かつ)て隠(いん)を或る山に卜(ぼく)し、世を終るまで詩歌に遊
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#00434 2016.9.11
『本朝神仙記伝』の研究(52) -於竹女仙・於松女仙-
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於竹(おたけ)女仙は、世に於竹大日如来と称す。何処(いずこ)の産(うまれ)にて何人(なんびと)の女(むすめ)なることを詳らかにせず。故にその姓氏もまた知るに由(よし)無し。 明正(めいしょう)天皇の寛永年間のことゝか、江戸の大伝馬町に佐久間勘解由(かげゆ)と云へる豪家あり。於竹は元この家の卑女(はしため)なりしが、天性慈悲の心深く、善事を思
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#00435 2016.9.17
『本朝神仙記伝』の研究(53) -髭道人-
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髭道人(ひげどうじん)は姓名及び生国(しょうごく)を知らず、故に何人(なんびと)たるを詳らかにせず。 大和国下市村に中山何某と云ふ人あり。癸(みずのと)未(ひつじ)年十月、一人の道人あり、下市に至り、街中の諸家に入りて銭を乞ふ。歳八十有余に見ゆ。長き髭は雪の如くにして胸に垂れ、眼光は稲妻の如くして人を射る。時既に初冬にして、寒風肌を襲ふと雖
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#00436 2016.9.23
『本朝神仙記伝』の研究(54) -虚庵-
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虚庵(きょあん)はその姓氏を知らず、またその生国を詳らかにせず。始め信濃国諏訪に住す。書画をよくし、最も篆刻(てんこく、印章の作成)に妙なり。且つ鷹を養ふの法に委(くわ)しくして、またよく鷹を描けり。 時に諏訪・因幡守家(いなばのかみけ)に悪臣ありて、主人を毒害せんと謀りしことのありし際にも、虚庵、独身(ひとりみ)にて密かに江戸に至り、執政
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#00437 2016.9.29
『本朝神仙記伝』の研究(55) -山門玄常-
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山門玄常(やまかどげんじょう)は、その父母及び何処(いずこ)の人と云ふことを知らず。播磨国播磨郡雪彦山(せっぴこさん)に移り住む。雪彦山は姫路の西南三里ばかりにあり。
玄常は紙楮木(かみおぎ)の皮を以て衣に充(あ)つ。雨降り日照れども笠を著(き)ず。遠く遊ぶと雖(いえど)も草鞋(わらじ)を著(つ)けず。斎(ものいみ)を保ちて欠かさず、或
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#00438 2016.10.5
『本朝神仙記伝』の研究(56) -栗山何某-
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栗山何某(なにがし)は相模国田村の人なり。その父母を詳らかにせず。 慶長年間のことゝか、栗山嘗(かつ)て天満大自在天神宮を信じ、手跡(しゅせき)をよくせむことを祈る。ある人、栗山に問ひけらく、「汝、日夜至誠を凝らして菅公の神霊を仰ぐ、その験(しるし)如何に」と。栗山即ち筆を執りて、都府楼(とふろう、大宰府政庁)の詩を書す。手跡の美妙、云ふべ
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#00439 2016.10.11
『本朝神仙記伝』の研究(57) -長谷川角行-
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長谷川角行(かくぎょう)は肥前国長崎の人なり。父は長谷川左近太夫(さこんだゆう)久光と云ふ。母は二条清安の女(むすめ)なりと云ふと雖(いえど)も、その実、詳らかならず。天文十年正月辰の刻に生まる。 始めその父母、応仁以来、天下大乱打ち続きて、万民塗炭に苦しむを歎き、「如何にもしてこの兵乱を鎮むべき程の一子を授け給へ」と天地神明に祈請し、丹誠
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#00440 2016.10.17
『本朝神仙記伝』の研究(58) -三石山仙翁-
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三石山(みついしやま)の仙翁は、その元、何人(なんびと)たりしを知らず。僧・覚林なる者、この山に入り、その仙翁に遇ひしことありしを以て、初めて世に知らる。
抑々(そもそも)この三石山は、大隅国肝属郡(きもつきごおり)後田村に在る高山にて、この山西は恰良郷(あひらごう)に続ける頗(すこぶ)る大なる山なり。恰良は『国史』には吾平山(あひらや
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