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#00710 2021.4.14 |
神通の玄理(1) -霊魂凝結の道-
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(清風道人云、この「神通の玄理」は、宮地神仙道道統第四代・清水宗徳先生(道号・南岳)が、昭和二十九年七月三十一日付の広報誌に掲載された論稿です。 #0382【水位先生の門流(4) -道統第四代・南岳先生-】>> )
「二柱の大神の、神たちを生(な)し坐せる事の実(もと)をつらつらに察(み)奉るに、凡(すべ)てその大御霊(おおみたま)を一偏(ひとむき)に所念(おもお)し凝らし給ふ時に神たちは生(あ)れ坐して、その生れ坐せる神々の、その事に霊幸(たまちは)ひ坐すなり。それを一つ二つ云はゞ、国の狭霧(さぎり)を撥(はら)はむと御心を凝らし給へば風神の生れ坐し、火神の荒びを静めむとては水神土神を生み坐し、夜見国(よみのくに)より荒びくる物を止めむと塞(さ)へ給へる御杖、また千引磐(ちびきいわ)に、塞神(さえのかみ)たちの成り坐せるなどを以て、この理(ことわり)を暁(さと)るべし。これら一偏に御霊を凝らし給へるに就て、その生し坐せる神たちの、その方に功ある跡の炳焉(しる)きものぞ。」(羽雪大霊寿真 平田大角先生)
どうして吾々人間に神仙たるの素質があるか、つまり人に得仙の可能性があるといふ由縁をどういふ筋から納得すればよいか。それには色々な考へ方があり、玄学の基本は実にこゝに存するとみてもよい程でありますが、我が神典の上には、それが実に平々淡々と伝承されて居ります。 この伝承の大事実一つを挙示しても、我が古神道(神仙道)が一切宗教の宗源であると申して過言でないので、これを神法道術の根本玄理といった面から推究して行っても驚くべき深秘が盛られてある。
人間に神仙たるの素質なく、人に得仙の可能性無しとすれば、霊感神通も一片の幻覚に過ぎぬわけのものでありますが、神典の伝ふるところによれば人間の始祖は伊邪那岐・伊邪那美二神の生み給ひし八百万神たちであり、人は神の分身ともいふべき後裔でありますから、本来神たるの素質をもって生まれ来たものであり、本来の神に還るべき「僊」の道がそこに厳然と確立してゐるのであります。 #0628【霊魂と肉体(6) -霊魂の種子-】>>
私は神典を拝読する度に、至る所に伏せられた偉大なる宇宙真理の仄(ほの)めきに打たれて思はず巻(かん)を掩(おお)ひて凝然とするのでありますが、特に記紀(『古事記』『日本書紀』)の神代巻の如きは、単にこれを神法道術の玄理といった面からのみ講究しても実に尽くるところを知らぬ妙理の無尽蔵である。 本稿は内容的に謂へば「神典に秘められたる神法道術の玄理」とでも題すべきもので、現在のところ約三十章に亘る稿案が纏(まとま)って居りますが、その中の一章を首題のもとに以下提示してみたいと思ふ。
まず記紀に伝承された伊邪那岐・伊邪那美二神の神生みの条には、実に神法道術の根本玄理を窺ふべき玄訣が伝へられてあり、真にこの神伝の玄旨を暁得(ぎょうとく)せば即ち伊邪那岐・伊邪那美二神の霊徳を相承することゝなるので、(宮地)水位先師の所謂(いわゆる)「これを保てば則ち仙」たるの道が開けて来るのであるが、その玄訣が二神の神生みの条に伏せられてあるのも蓋(けだ)し天意であらうかと考へる。「僊」の道も畢竟(ひっきょう)「神生み」の過程に外ならぬからである。
「伊弉諾尊、伊弉冉尊と共に大八洲国(おおやしまぐ)を生みたまひき。然して後、伊弉諾尊、が生める国、唯朝霧(さぎり)のみ有りて、薫り満てる哉(かな)とのたまひて、乃(すなわ)ち吹き撥はせる気(みいぶき)に化為(な)りませる神の号(みな)を級長戸辺命(しなとべのみこと)と曰(まお)す。亦は級長津彦命(しなつひこのみこと)と曰す。これ風神(かぜのかみ)なり。」(『日本書紀』)
二神が国生みの後に初めて化生されたのがこの風神であるが、神生みの最初に風神を化生されたことには非常な神秘がある。道士が玄道を学ぶの始め、まず胎息の法が修められぬと感念の凝結が行はれ難いから百術すべて空(くう)に帰して効験を見ずとされて居ります。 #0518【扶桑皇典(48) -風の神-】>> 息(イキ)の修練が、実に生(イキ)ることの修練である。僊道(仙道)のことをまた長生の道と号するのも、人生五十年とか八十年とかの短い息ではなく、風神の御神徳を戴いて二千年、三千年といふ長い息を通はせて戴く為である。
その風神を神生みの最初に御生みになられたのであるが、「我が生める国、ただ朝霧のみ有りて、薫り満てる哉」と言挙(ことあ)げ給ひ、その立ちこめて朦々朧々たる大気を流通せしめらるべく国(地球)の狭霧を吹き撥はれた御気吹に風神・級長津彦神、級長津姫神を化生されたのである。 換言すれば、国の狭霧を吹き撥って大気を流通せしめる必要に当面された大神が、こゝに「この神徳(はたらき)を専ら分掌せしめるべき神を化生せねばならぬ」と大御霊を凝らし給ひて風神を生成されたのである。
冒頭に掲げたのは羽雪大霊寿真仙平田篤胤先生の『古史伝』の注釈文の一節でありますが、先生はこゝのところを「二柱の大神の、神たちを生し坐せる事の実をつらつらに察奉るに、凡てその大御霊を一偏に所念し凝らし給ふ時に神たちは生れ坐して、その生れ坐せる神々の、その事に霊幸ひ坐すなり」と解明して居られる。 水位先師が神仙道を「霊魂凝結の道なり」と仰せられてゐるところと相照して会得して戴きたいと思ふ。使魂法も玄胎結成もこれ皆霊魂凝結の道である。我が古神道の鎮魂法の如きも、離遊の運魂を招き鎮めて身体の中府に安んずるところの霊魂凝結の道術である。 #0662【宮地神仙道要義(12) -修練の究極・霊胎結成法-】>>
さうした神法道術はどうして人間に可能か、それは神仙道の太祖であり人間の始祖であられる伊邪那岐・伊邪那美大神の神性を吾々人間が受け継いでゐるからである。唯それだけのことで、その外に難しい理屈は何も要らないので、その神法を只有りの儘に信じて太祖の大神たちの御神業に神習ひ奉ればよいのである。 神化霊感の原力を吾々凡人がこれから自分一人の力で作り出さうといふのであれば、その可能性は極めて覚束(おぼつか)ない次第であると謂はねばならぬ、しかしさうではなく、その根元力は大神の遺伝として大神の後裔たる吾々人間に与へられて内在し潜在してゐるのである。只その内在せる原力を発顕する方法を講じさへすればよいわけで、霊魂凝結の妙道がこゝに示されてゐるのであります。 |
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カテゴリ:神通の玄理 |
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▼関連記事一覧 |
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#00662 2020.6.30
宮地神仙道要義(12) -修練の究極・霊胎結成法-
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前数章に亘り、宮地水位先生によりて闡明(せんめい)された神仙道の骨格たるべき要義に就て編述し来ったが、以下先師の齎(もたら)された諸神法道術の基礎知識となるべき資料を、一切師説のまゝに御紹介することに致したい。
水位先生は、その前世は実に神集岳の仙官たりし謫仙(たくせん)に坐し、現世にあられては十歳の頃より神仙界に交通され、神仙道の微旨
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#00518 2018.2.7
扶桑皇典(48) -風の神-
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風は天地の間の気にて、万物、皆これを呼吸して活けるは言ふも更にて、人の物言ふ声の遠きに聞こゆるも、またこの風の力なり。 往昔、坂東の子女、瘧病(わらわやみ)に患ひて、臨終の時、母を恋ひて、三度母を呼びて亡(う)せたるに、その声、一日路(ついたちみち)を隔てたる地に居(おり)たる母の耳に、分明に聞こえたりといへり(『雑談集』)。
前にい
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#00382 2015.11.2
水位先生の門流(4) -道統第四代・南岳先生-
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かくして宮地威夫先生が方全先生より継承された道統並びに学系は、神仙道本部を主宰された清水宗徳先生(道号・南岳)に引き継がれましたが、伝法類の整理や伝書類の作成に多忙を極められ、また本部の運営にも大変苦労されたようで、見かねた威夫先生が「道業上の苦しみは道士皆で分け合えば良いと思う、道士皆の道福となって還ってくることだから。苦しみを分け合うこと
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