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#00456 2017.1.21
『本朝神仙記伝』の研究(74) -河野至道寿人-
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河野至道(しどう)寿人(じゅじん)は、名は久、通称は虎五郎、後に俊八と改む。豊後国杵築(きつき)の旧藩士なり。天保七年三月を以て同国国東(くにさき)郡安岐浦(あきうら)の豪家・永松四郎左衛門の三男に生まれ、十四歳にして河野氏に養はる。同家は大阪中之島越中橋蔵屋敷の定詰(じょうづめ)にして、中小姓勘定役(ちゅうこしょうかんじょうやく)を勤む。明
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#00455 2017.1.15
『本朝神仙記伝』の研究(73) -御殿林仙人-
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御殿林(ごてんばやし)仙人は信濃国更科郡御殿林に住む仙人なり。元上野国(こうずけのくに)の生まれと聞こゆれども、何人(なんびと)たることを知らず。明治九年、同郡榊宿(さかきじゅく)の在なる六月(みなづき)村の農夫・信平(しんべい)なる者に遇へるに因りて世に知らるゝことゝなれり。
今その大要を挙げむに、抑々(そもそも)榊宿は天文年間、村上
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#00454 2017.1.9
『本朝神仙記伝』の研究(72) -甲斐徳本-
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甲斐徳本(かいのとくほん)は、その姓は永田氏なり。その父母及び生国を知らず。伊豆、武蔵の間を行き廻り、薬籠を負ひて、「甲斐の徳本一服十六銭」と呼びて薬を売り歩く。
江戸に在りける時、徳川秀忠公病あり、典薬(てんやく)の諸医、手を尽くせども験(しるし)無かりけるに、誰が申しけむ、徳本を召して治療を為さしむ。不日にして平癒したり。 こゝに
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#00453 2017.1.3
『本朝神仙記伝』の研究(71) -米叟上人-
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米叟上人(べいそうしょうにん)は何人(なんびと)たるかを詳らかにせず、またその常住の所を知らず。よく音楽に通じて、その秘曲を知りたりと云ふ。
土佐国の藩士に谷好井(たによしい)と云へる人あり、即ち谷秦山(しんざん)先生の後にして、今の谷中将の先なり。国学を以て名あり。 嘗て京都に遊べる時、鞍馬山に於て米叟に遇ひ、催馬楽(さいばら)の、
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#00452 2016.12.28
『本朝神仙記伝』の研究(70) -足柄山五仙人-
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足柄山の五仙人は、正覚院(しょうかくいん)と云ひ、満善坊と云ひ、十全院と云ひ、養徳医師と云ふ。今一人はその名を知らず。皆、足柄山に住む仙人なり。孰れもその元何人(なんびと)たりしかを詳らかにせず。唯、養徳医師のみは、江戸日本橋の辺(ほとり)に医業を為したる者なりと云ふ。固(もと)より山中の隠者にして、絶へて知る者無かりしが、猟師・水原文五郎な
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#00451 2016.12.22
『本朝神仙記伝』の研究(69) -雲水行者-
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雲水(うんすい)行者はその姓名を知らず、また何国の人と云ふことを明かさず。諸人その名を問へば、唯「雲水の行者なり」と答へたりとぞ。僧か俗か詳らかならず。髪は後ろに長く垂れたりと云ふ。
元文(げんぶん)年間より信州小諸領(こもろみね)の岩窟(いわや)の中に住みて、神妙の事ども多きにより、衆人信仰して、卜筮(うらない)咒術(まじない)等を頼
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#00450 2016.12.16
『本朝神仙記伝』の研究(68) -羽黒山千三仙人-
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羽黒山千三(せんざ)仙人は何氏なるを知らず。その名は千三郎、父は弥助、母の名、詳らかならず、陸奥国北上三本木(さんぼんぎ)の人なり。始め弥助、男子二人あり、兄を喜之助と呼び、弟を千三郎と称す。 家貧にして二人を養育すること能(あた)はず、千三郎を伯楽の家に遣はしけるに、ある日帰り来りて、「己は伯楽を業(わざ)として世を渡らむこと好ましからね
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#00449 2016.12.10
『本朝神仙記伝』の研究(67) -霧島山六女仙-
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霧島山女仙は何人(なんびと)たることを詳らかにせず、またその来歴を知る由(よし)無し。善五郎、一名・政右衛門と云へる者を幽界に招き、数十年間使用したること有りしを以て、初めて世に知らるゝに至れり。
今その梗概(あらまし)を挙げむに、まず政右衛門のことより云ふべし。政右衛門は薩摩国日置郡(ひおきごおり)市来郷(いちきごう)伊作田村久保園門
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#00448 2016.12.4
『本朝神仙記伝』の研究(66) -金獄新左衛門-
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金獄(かながだけ)の新左衛門は、その元、何国の者と云ふこと詳らかにせず。いつの頃よりか、甲斐国逸見筋(へんみすじ)なる金獄の深山に在りて変異を現はす。全体鬼形に化して、常にこの山岳を廻り、時に或は風雨雷電を起こし、その猛烈実に恐るべきものなりと云へり。逸見筋の農家、彼が怒りを恐れて新左衛門と云ふ名を付けたりとも云へり。 #023
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#00447 2016.11.28
『本朝神仙記伝』の研究(65) -荏草孫右衛門-
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荏草孫右衛門(えぐさのまごえもん)は、甲西逸見筋(こうせいへみじ)・荏草村の山中に居る異人なり。霊元天皇の延宝の頃までは、村人、山に入れば何処(いずこ)よりともなく来(きた)りて、樵夫(きこり)と等しく、斧を持ちて伐木(ばつぼく)の助力を為せり。その名を孫右衛門と云ふ。
後、人に語りて云ひけらく、「我は元上州の生まれの者なり。壮年にして
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#00446 2016.11.22
『本朝神仙記伝』の研究(64) -京都仙翁-
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京都の仙翁はこれまた何人(なんびと)たるを知らず、同地大仏の辺(ほとり)に住める老人にてありきと云ふ。
始め柳川三省(やながわさんせい)、この老人と折々往来して心安く交はりしかど、異なる人とも思はざりしに、ある時老人、三省に向ひて、「某(それがし)も殊の外(ほか)老年に及びたれば、この世に久しく存在(ながらう)べしとも覚えず、然(しか)
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#00445 2016.11.16
『本朝神仙記伝』の研究(63) -山中山三郎-
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山中山三郎は字(あざな)を丑之助、土佐国土佐郡高知城下の東北に住まひせし人なりと云ふ。寛文、延宝の頃のことゝか、山三郎、常に静閑を好みて紛擾(ふんじょう)を喜ばず、暇ある時は昼夜の分かち無く一室の内に閉じ籠りて、ある時は静座を為し、ある時は安臥(あんが)を為し、何か修行を怠らざる者の如くなれども、敢てその由(よし)を語らざれば、その所為の何た
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#00444 2016.11.10
『本朝神仙記伝』の研究(62) -信濃女仙-
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信濃の女仙は、その姓名を詳らかにせず、同国飯田領の人なり。この女仙の仙境に入りたることは、江戸市ヶ谷・自證院に住める西応房(さいおうぼう)と云へる道心坊に依りて世に知られたり。
然(しか)るは、この道心坊は尾張国中島郡一宮の生まれにて、少年の頃より狩りを好み、飛騨国に行きて狩人と成り、信州は勿論、美濃、加賀、越前、越中等までも、山続きに
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#00443 2016.11.4
『本朝神仙記伝』の研究(61) -義斎-
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義斎(ぎさい)はその姓氏を知らず。医を生業(なりわい)とする老翁なり。後桜町(ごさくらまち)天皇の明和・安永の頃、摂津国豊島郡麻田(てしまごおりあさだ)と云へる所に住みたり。 元加賀国の産まれにして、久しく京都に在りて医術を学び、一所不住にして只管(ひたすら)遍歴したりしが、終に老年に及びて何某侯より棒禄を賜り、麻田に移りて住みけるとぞ。
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#00442 2016.10.29
『本朝神仙記伝』の研究(60) -白鳥永徳-
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白鳥永徳(しらとりえいとく)は、讃岐国白鳥の一向宗なる某寺の住職なり。永徳その宗旨に拘はらず、寺を出て四国霊場を巡拝し、終に我が寺に帰らず、安宅(あたか)の海岸に巌窟(いわや)あり、これに入りて住み、日に一度食を乞ひ、巌上に伏して一重(え)の衣の外(ほか)身にまとはず、妻子訪ね来(きた)れども逢はず。
この所は、北は大海・播磨灘に対し、
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#00441 2016.10.23
『本朝神仙記伝』の研究(59) -雲居官蔵-
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雲居(うんこ)官蔵は、また雲虚観蔵とも書く。日向国霧島山に住む仙人なり。元は鹿児島藩侯に仕へし武士・平瀬新右衛門(しんうえもん)の第三子にして、その名を平瀬勘兵衛紀武乗(きのたけのり)と呼ばれし人なり。 聊(いささ)か不平のことありて、官禄を捨て世を遁れ、この山に隠れて人に見(まみ)えず、仙道を求めて修練すること数十年を経過し、大いに得る所
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#00440 2016.10.17
『本朝神仙記伝』の研究(58) -三石山仙翁-
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三石山(みついしやま)の仙翁は、その元、何人(なんびと)たりしを知らず。僧・覚林なる者、この山に入り、その仙翁に遇ひしことありしを以て、初めて世に知らる。
抑々(そもそも)この三石山は、大隅国肝属郡(きもつきごおり)後田村に在る高山にて、この山西は恰良郷(あひらごう)に続ける頗(すこぶ)る大なる山なり。恰良は『国史』には吾平山(あひらや
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#00439 2016.10.11
『本朝神仙記伝』の研究(57) -長谷川角行-
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長谷川角行(かくぎょう)は肥前国長崎の人なり。父は長谷川左近太夫(さこんだゆう)久光と云ふ。母は二条清安の女(むすめ)なりと云ふと雖(いえど)も、その実、詳らかならず。天文十年正月辰の刻に生まる。 始めその父母、応仁以来、天下大乱打ち続きて、万民塗炭に苦しむを歎き、「如何にもしてこの兵乱を鎮むべき程の一子を授け給へ」と天地神明に祈請し、丹誠
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#00438 2016.10.5
『本朝神仙記伝』の研究(56) -栗山何某-
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栗山何某(なにがし)は相模国田村の人なり。その父母を詳らかにせず。 慶長年間のことゝか、栗山嘗(かつ)て天満大自在天神宮を信じ、手跡(しゅせき)をよくせむことを祈る。ある人、栗山に問ひけらく、「汝、日夜至誠を凝らして菅公の神霊を仰ぐ、その験(しるし)如何に」と。栗山即ち筆を執りて、都府楼(とふろう、大宰府政庁)の詩を書す。手跡の美妙、云ふべ
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#00437 2016.9.29
『本朝神仙記伝』の研究(55) -山門玄常-
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山門玄常(やまかどげんじょう)は、その父母及び何処(いずこ)の人と云ふことを知らず。播磨国播磨郡雪彦山(せっぴこさん)に移り住む。雪彦山は姫路の西南三里ばかりにあり。
玄常は紙楮木(かみおぎ)の皮を以て衣に充(あ)つ。雨降り日照れども笠を著(き)ず。遠く遊ぶと雖(いえど)も草鞋(わらじ)を著(つ)けず。斎(ものいみ)を保ちて欠かさず、或
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#00436 2016.9.23
『本朝神仙記伝』の研究(54) -虚庵-
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虚庵(きょあん)はその姓氏を知らず、またその生国を詳らかにせず。始め信濃国諏訪に住す。書画をよくし、最も篆刻(てんこく、印章の作成)に妙なり。且つ鷹を養ふの法に委(くわ)しくして、またよく鷹を描けり。 時に諏訪・因幡守家(いなばのかみけ)に悪臣ありて、主人を毒害せんと謀りしことのありし際にも、虚庵、独身(ひとりみ)にて密かに江戸に至り、執政
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#00435 2016.9.17
『本朝神仙記伝』の研究(53) -髭道人-
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髭道人(ひげどうじん)は姓名及び生国(しょうごく)を知らず、故に何人(なんびと)たるを詳らかにせず。 大和国下市村に中山何某と云ふ人あり。癸(みずのと)未(ひつじ)年十月、一人の道人あり、下市に至り、街中の諸家に入りて銭を乞ふ。歳八十有余に見ゆ。長き髭は雪の如くにして胸に垂れ、眼光は稲妻の如くして人を射る。時既に初冬にして、寒風肌を襲ふと雖
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#00434 2016.9.11
『本朝神仙記伝』の研究(52) -於竹女仙・於松女仙-
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於竹(おたけ)女仙は、世に於竹大日如来と称す。何処(いずこ)の産(うまれ)にて何人(なんびと)の女(むすめ)なることを詳らかにせず。故にその姓氏もまた知るに由(よし)無し。 明正(めいしょう)天皇の寛永年間のことゝか、江戸の大伝馬町に佐久間勘解由(かげゆ)と云へる豪家あり。於竹は元この家の卑女(はしため)なりしが、天性慈悲の心深く、善事を思
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#00433 2016.9.5
『本朝神仙記伝』の研究(51) -一路居士・道観・善輔-
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一路居士(いちろこじ)はその姓氏を詳らかにせず。和泉国堺に住める隠士にして、僧・一休と同時の人なり。ある日一休、一路に問ひて、「万法皆道あり。如何にぞこれ一路とは云ふぞ」と云ひければ、一路これに答へて、「万事皆休すべし。如何にぞこれ一休とは云ふぞ」と云ひけるとぞ。
一路、嘗(かつ)て隠(いん)を或る山に卜(ぼく)し、世を終るまで詩歌に遊
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#00432 2016.8.30
『本朝神仙記伝』の研究(50) -天野三郎兵衛康景-
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天野三郎兵衛康景(あまのさぶろうひょうえやすかげ)は、徳川家康公に仕へて功労有りし人なり。嘗(かつ)て家康公、三河国に在りし時、制法を定め、高力与左衛門清長(こうりきよざえもんきよなが)・本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)・天野三郎兵衛康景の三人を以て三奉行とせり。
その頃、世人の諺に「仏高力、鬼作左、とちへんなしの天野三郎
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#00431 2016.8.24
『本朝神仙記伝』の研究(49) -原隼人佐-
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原隼人佐(はらはやとのすけ)は諱(いみな)を昌勝と云ふ。父は原加賀守(かがのかみ)、母は秋山伯耆守(ほうきのかみ)の妹なり。代々甲斐国に住みて、武田家譜代の従臣たり。
始め父・加賀守、伯耆守が妹を娶(めと)りしかど、久しく子を孕(はら)むこと無かりしに、ある時たゞならず煩ひ出しければ、医師を頼みて様々に治療すれども効験無し。 ある人、
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#00430 2016.8.18
『本朝神仙記伝』の研究(48) -白山仙人・加藤友春-
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白山(はくさん)の仙人は房星(そいぼし)の神なり。朝倉義景の従臣・加藤友春、白山に入りてこれに謁し、初めて世に知らる。
正親町(おおぎまち)天皇の永禄の末年、朝倉家大いに衰微し、士民悉(ことごと)く怨望せり。こゝに於て織田信長の兵、屡(しばしば)国境を侵して領内安からず。義景、日々にこれを憂ふ。 同天皇の元亀二年六月、義景その臣・加藤
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#00429 2016.8.12
『本朝神仙記伝』の研究(47) -白幽子-
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白幽子(はくゆうし)は、姓は源、氏は石川、その通称を知らず、また父母及び産国を詳らかにせず。山城国石川の奥なる巌窟(いわや)に棲むこと数百年、故(もと)の丈山(じょうざん)氏の師範たりし人なりと云ふ。 文禄年間、この里の老人、屡(しばしば)これを訪ねけるに、その容貌六十余歳程に見えしかど、尋ねし老人の父母祖父母等の歳若かりし時のことをも、目
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#00428 2016.8.6
『本朝神仙記伝』の研究(46) -大口山女仙-
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大口山(おおぐちやま)の女仙は何人(なんびと)たるかを詳らかにせず、また如何なる来歴あるかを知るに由(よし)無し。唯同地の壮士を仙境に伴ひしこと有りしに依りて、初めて世に知らるゝ事となれり。 今その大要を挙げむに、正親町(おおぎまち)天皇の天正年間、同地は鹿児島藩主・島津家の領分にして、他藩との国境なり。これを以て当時の藩主、諸臣の中より人
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#00427 2016.7.31
『本朝神仙記伝』の研究(45) -岩田刀自-
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岩田刀自(いわたとじ)はその父母を知らず、また生国を詳らかにせず。安房国(あわのくに)の里見義広に見(まみ)えて奇異を現はし、初めて世に知らる。 当時義広、武勇を以て国を治め、威(いきおい)漸(ようや)く盛ならむとす。その頃、同国朝夷郡(あさひなのこおり)より、一人の老翁を連れて城中に来れり。その歳を問へば、「我が歳数百年に及ぶと雖(いえど
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#00426 2016.7.24
『本朝神仙記伝』の研究(44) -長谷川式部大夫-
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長谷川式部大夫(はせがわしきぶのたいふ)は、周防国の領主・大内義隆に仕へて旧功ありし者なり。大内家傾かむとするを見て、式部屡(しばしば)諫言(かんげん)したれども用ひられず、却て科(とが)に遭はんとしければ、力及ばずして密かに本国を立ち去り、所縁(ゆかり)あるに因みて、肥後国飽田郡に妻子を引き具して移りぬ。 式部元来簡素隠逸を好みて、再び世
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#00425 2016.7.18
『本朝神仙記伝』の研究(43) -長清道士-
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長清(ちょうせい)道士はその本名を詳らかにせず。相州北条家の家臣なりと云ふ。 道士の父もまた名有る勇士なりしが、関中擾乱(じょうらん)の時、賊兵・何某の為に殺されしに、道士力足らずして速やかにその仇を復すること能(あた)はずを憤り、遂に上野国なる金洞山に隠れ、人跡絶へたる巌窟(いわや)を住処(すみか)となし、黄精を服し木の実を食ひ、日々刻苦
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#00424 2016.7.12
『本朝神仙記伝』の研究(42) -十津川異人-
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十津川(とつがわ)の異人はその姓名を知らず。かの地の樵夫(きこり)等、木を伐らむとて山深く分け入りつゝ日を送る程に、ある日羅刹(らせつ)の如きもの遥かに来りけり。樵夫等これを見て、怪しみ恐れざるは無し。その中に心ざま雄々しき壮(おのこ)三人、斧を取りつゝ前に立ちて、寄らば撃たむと睨み居たり。
その時異人手を挙げて声を発し、「怪しむべから
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#00423 2016.7.6
『本朝神仙記伝』の研究(41) -郷谷長生夫妻-
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郷谷(ごうたに)の長生夫妻は何人(なんびと)たるを知らず。光格天皇の天明年中、備中国賀陽郡木谷村と云へる所より行くこと凡そ三、四丁にして、郷谷と云へる所あり。同国の小官(こやくにん)、一人猟に出てこの郷谷の谷中に迷ひ入り、途方を失ひて只管(ひたすら)深く行く所に、忽然として白髪の老夫妻の出来るに遇へり。
かの武士思へらく、これ必ず猿の年
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#00422 2016.6.30
『本朝神仙記伝』の研究(40) -万里小路藤房卿-
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万里小路藤房(までのこうじふじふさ)卿は、姓は藤原氏、初めの名は惟房(これふさ)、権大納言・宣房(のりふさ)卿の長子なり。後醍醐天皇に仕へ奉りて左大弁に任ぜられ、参議を経て中納言に至り、次で左兵衛督(さひょうのえのかみ)、検非違使(けんぴいし)別当を兼ね、正二位に叙せらる。
元弘元年、北条高時、兵を遣はして京師(京都)を犯さむとす。護良
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#00421 2016.6.24
『本朝神仙記伝』の研究(39) -渡会常昌神主-
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渡会常昌(わたらいのつねよし)神主は、姓は渡会、氏は檜垣(ひがき)、本の名は常良と云へり。伊勢国渡会郡山田の人なり。豊受大神宮に仕へ奉りて一の禰宜(ねぎ)に進み、従三位に昇る。即ち長官たり。
常昌、博学洽聞(こうぶん)にして神道の根源を究め、聖賢の道徳を兼ねたり。その性正直にして、心神明徹なりし故にや、霊験顕はれし人なり。その学力の程は
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#00420 2016.6.18
『本朝神仙記伝』の研究(38) -由井源蔵-
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由井源蔵(ゆいげんぞう)は駿河国興津(おきつ)の人なり。その先(まえ)は鎌倉幕府に伺公(しこう)したる者なりしが、時世の変遷に随ひ、家衰へて興津に移り住みたりと云ふ。
源蔵若き時より神仙の道を好み、その友・藤山兵次、浦安又五郎、神原四郎の三人と相計りて、「古老の話を聞くに、富士足柄の山には昔より仙人在りて、志深く道を求むる者には、出逢ひ
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#00419 2016.6.12
『本朝神仙記伝』の研究(37) -大枝国兼-
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大枝国兼(おおえのくにかね)は伊勢神宮の神司(かむつかさ)なり。姓は大中臣(おおなかとみ)、順徳天皇の承久(じょうきゅう)の乱に、新院の勅(みことのり)に応じ、佐々木廣綱と共に(北条)義時を討ち、利有らずして国兼、佐渡国へ遁れ、また移りて旧領遠江国・濱名民部丞(はまなみんぶのじょう)が家に隠る。
国家の乱れの治まらむことを祈らむため、寛
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#00418 2016.6.6
『本朝神仙記伝』の研究(36) -鬼三太清悦-
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鬼三太清悦(きさんたせいえつ)は源義経の雑色(ぞうしき)なり。長生して奥州に至りしが、伊達正宗の時に至りて再び世に知らるゝことゝはなりぬ。 今その顛末を記さむに、陸奥国磐井郡(いわいこおり)衣川(ころもがわ)七里と云へる所に一人の老翁あり。鷹眼虎質(ようがんこしつ)にして、髪は剃りたれども緇衣(ころも)を着ず、性に任せて物に拘はらず、またそ
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#00417 2016.5.31
『本朝神仙記伝』の研究(35) -残夢-
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残夢(ざんむ)は自ら日白(にっぱく)と呼び、また秋風道人(しゅうふうどうじん)と称せり。僧にあらず、俗にあらず、素より何人(なんびと)たることを詳らかにせず。或は云ふ、常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)ならむと。風顛(ふうてん)の狂漢にして自ら一休を友とし善くして、その禅要を得たりと云へり。 また時々人と語るに、元暦(げんりゃく)・文治の頃の
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#00416 2016.5.25
『本朝神仙記伝』の研究(34) -津軽女仙-
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津軽女仙は筑前国遠賀郡(おんがこおり)庄ノ浦の産(うまれ)なり。その父母詳らかならず、またその姓名を知らず。数百年の後、同国芦屋の商人何某が津軽に行きて、図らずもこの女仙に遇ひしに依りて、初めて世に知らるゝことゝなりたり。
今その大要を挙げむに、筑前国遠賀郡の浦人どもの中にて、伊万里の瀬戸物を船に積みて諸国を廻り、商売を為す者あり。天明
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#00415 2016.5.19
『本朝神仙記伝』の研究(33) -平景清・平盛嗣-
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平景清(たいらのかげきよ)、平盛嗣(たいらのもりつぐ)は、共に平家の名将なり。然(しか)るに平家没落の後、この二人共に種々の異説を伝へて、その終る所定かならざりしが、こゝに正親町(おおぎまち)天皇の天正十二年、北畠信雄(のぶかつ)、羽柴秀吉と合戦に及びし時、佐々内蔵助成政(ささくらのすけなりまさ)は北畠信雄に与(くみ)し、同年十一月の下旬、大
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#00414 2016.5.13
『本朝神仙記伝』の研究(32) -平維盛-
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平維盛(たいらのこれもり)は内大臣・平重盛公の嫡男なり。平家没落の砌(みぎり)、紀伊国那智の滝に於て入水したりと世に伝へしかども、その実、入水にあらず。紀州の山中に隠れ、遂に仙境に入りたり。
そのことの世に顕はれたるは、後奈良天皇の弘治年中、和泉国堺に薬種を商ふ長次と云へる者あり、久しく病を患ひて、紀伊国の十津川郷の温泉に湯治に行けり。
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#00412 2016.4.30
『本朝神仙記伝』の研究(30) -藤太主・源太主-
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藤太主(とうたぬし)、源太主(げんたぬし)は、大和国吉野の郊(さと)に居る仙人なり。始め五穀を絶ち密咒を持し、鍛錬精修して仙道を得たりと云ふ。常に烏帽子(えぼし)を戴き布衣(ほい)を着たり。
醍醐天皇の延喜の頃、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)とて、世に隠れ無き行法の人ありけるが、ある時大和国に至り、吉野川を渡らむとしけるに、折しも洪水漲(
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#00411 2016.4.24
『本朝神仙記伝』の研究(29) -嵯峨隠君子-
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嵯峨隠君子(さがのいんくんし)はその姓名を知らず。隠れて西山に棲む、因りて隠君子と称す。 貞観十二年三月二十三日のことゝか、菅公初めて策を献ぜられし時、菅原是善(これよし)卿、橘広相(たちばなのひろみ)と共にこれを開き閲(けみ)せり。偶々(たまたま)一事の通ぜらること有りしに依り、広相馬に鞭打ちて嵯峨に至り、隠君子に問ひて事を弁じたりと云ふ
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#00410 2016.4.18
『本朝神仙記伝』の研究(28) -菅公-
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菅公は太政大臣・菅原道真公なり。公は御小名を阿呼(あこ)と称し奉る。参議従三位・菅原是善(これよし)卿の御子にして、御母は大伴氏なり。仁明天皇の承和十二年六月二十五日、御誕生在らせらる。 幼少の御時より御家の学問は云ふに及ばず、文字書くことを好ませ給ひ、広く和漢の書を読み給ひ、一を聞いて十を悟り給ふ御才おはしまして、歌を詠み詩文章を作り給ふ
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#00408 2016.4.6
『本朝神仙記伝』の研究(26) -在原業平朝臣-
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在原業平(ありわらのなりひら)朝臣(あそみ)は、平城天皇の御孫・弾正尹阿保(だんじょうのいんあほ)親王の五男にして、母は桓武天皇の皇女(ひめみこ)・伊登内(いとない)親王なり。 業平はその容貌極めて優美、その志操最も高尚なる人にして、その官も中将にまで昇りしにより、世には在五(ざいご)中将とも称せられたるが、後世に至りて頗(すこぶ)る淫佚(
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#00407 2016.3.31
『本朝神仙記伝』の研究(25) -貞純親王-
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貞純(さだすみ)親王は清和天皇第六の皇子(みこ)なり。母は神祇伯王・棟貞(むねさだ)の女(むすめ)なり。貞観十五年四月二十一日に生まる。やがて親王と成らせ給ふ。寛平五年十一月二十三日、右大臣・源能有(みなもとのよしあり)公を文武の師となし、その伝を受けらる。
中務卿(なかつかさきょう)、兵部卿(ひょうぶきょう)、四品(ほん)、上総・常陸
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#00406 2016.3.25
『本朝神仙記伝』の研究(24) -白箸翁-
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白箸翁(しらはしのおきな)は何人(なんびと)と云ふことを知らず、またその姓名も得ず。 清和天皇の貞観の末、一人の老夫あり、常に市中に遊びて、白箸を売るを以て生業(なりわい)とす。時の人、号(なづけ)て白箸翁と云ふ。人皆不潔なるを厭(いと)ひて、その箸を買はず。翁もまた自らこれを知りて憂ひとせず。
寒暑共に皁色(くろいろ)の服を着て変は
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#00405 2016.3.19
『本朝神仙記伝』の研究(23) -小野篁-
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小野篁(おののたかむら)は敏達天皇八代の後裔、小野岑守(みねもり)の子なり。身の丈六尺三寸あり。家、元より清貧なれども、母に仕へて至孝なり。 始め学業を事とせず、嵯峨天皇これを聞食(きこしめ)して、「既にその人の子たる者、何ぞ弓馬(きゅうば)の士とならむや」と難ぜさせ給ひし由(よし)を聞き、篁、大いに恥じ悔ひ、これより学に志したりとかや。
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#00404 2016.3.13
『本朝神仙記伝』の研究(22) -武庫山女仙-
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武庫山女仙(むこやまのにょせん)は、その父母及び姓氏を詳らかにせず。淳和天皇の第二の妃(みめ)・如意尼(にょいのあま)に仕へし女官にて、武庫山に入りて仙を得たりと云ふ。 而(しか)してこの女仙の世に知られたるは、正親町天皇の天正年中、京都七条の辺りに小野民部少輔(おのみんぶしょうゆう)とて、元は然(しか)るべき人の末なりしが、世に零落(おち
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#00403 2016.3.7
『本朝神仙記伝』の研究(21) -願覚仙人-
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願覚は何人(なんびと)たることを詳らかにせず。大和国葛上郡(かつらぎかみのこおり)に高宮止寺(たかみとでら)と云ふ寺あり、この寺に円勢(えんせい)法師と云へる百済国の僧、我が国に渡り来りて住みけり。智識の勝れたる僧にてありたるとぞ。時に何処の者とも知らず、願覚と云へる僧、また来りてこの房に住みぬ。
然(しか)るにこの願覚、晨(つと)に出
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#00402 2016.3.1
『本朝神仙記伝』の研究(20) -菊女仙-
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菊女仙は何処(いずこ)の人と云ふことを知らず。またその姓氏を詳らかにせず。夏秋の間、里人、女仙を白山(はくさん)の水晶渓(すいしょうだに)の滝の下に見る。常に菊を採りて、その花と葉を食とし、火の入りたるものを絶てり。その容貌顔色、宛(さながら)処女(おとめ)の如し。人、「菊女(きくめ)」と称し、また「阿菊(おきく)」と呼べり。後、その神霊なる
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#00401 2016.2.24
『本朝神仙記伝』の研究(19) -養老仙人-
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養老仙人はその姓名を詳らかにせず。美濃国多藝郡(たげのこおり)の樵夫(しょうふ)にして、母に仕へて至孝なり。 元正天皇の霊亀三年、この樵夫の孝咸(こうかん)に因りて同郡多度山より醴泉(れいせん)出(いだ)せり。故に改元ありて、霊亀の年号を改めて養老とせらる。これを以てこの樵夫の孝名、普(あまね)く世に知られたり。然(しか)れども、この樵夫が
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#00400 2016.2.18
『本朝神仙記伝』の研究(18) -久米仙人-
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久米仙人は大和国上郡の人なり。始め深山に入りて神仙の道を求め、常に松葉を食とし、薛荔(かおりぐさ)を服しけるとぞ。 また、大伴(おおとも)仙人、安曇(あづみ)仙人等と、同国吉野郡なる龍門寺に籠りて、形を練り真(まこと)を修めけるに、他の二仙は早く道を得て飛行自在の身となり上昇しけるが、久米仙人は何かの障(さわ)りありけるにや、少し後れて、共
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#00399 2016.2.12
『本朝神仙記伝』の研究(17) -柿本人麿-
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柿本人麿は、姓は朝臣(あそみ)、その父母及び生国を詳らかにせず。石見国より大和国に上りたる事蹟あるより石見国の人なりと云ひ、また大和国の皇別(こうべつ)に柿本朝臣の姓あるより大和国の人なりと云ふ者あれども、確証無ければ孰(いず)れとも定むべからず。
人麿、天稟(てんぴん)よく歌を詠ず。持統天皇の時、石見国より大和国に上り、即ち敷島の道を
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#00398 2016.2.6
『本朝神仙記伝』の研究(16) -鈴鹿翁-
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鈴鹿翁(すずかのおきな)は何人(なんびと)たるを詳らかにせず。天武天皇を助け奉りしに因りて世に知らるゝことゝなりぬ。 抑々(そもそも)この翁の現はれしは、天智天皇、御位を御弟・大海人皇子(おおあまのみこ)即ち天武天皇に譲らせ給ひし時、天智天皇の皇子・大友皇子、大いにこれを憤り、大軍を起こして大海人皇子の坐します清見原宮に押し寄せ、厳しくこれ
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#00397 2016.1.31
『本朝神仙記伝』の研究(15) -駕龍仙人-
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駕龍(がりょう)仙人は何人(なんびと)たることを知らず。斉明天皇の元年五月庚午の一日、龍に駕(のり)て虚空(おおぞら)を飛行せり。故に称して駕龍仙人と云へり。
この仙人、その貌(かたち)唐人に似て、青き油帛(あぶらきぬ)の笠を着、大和国葛城山の峰より飛び出(いで)て、生駒山の方に馳せ行き、暫時(ざんじ)の間、同山に隠れて見えざりしが、同
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#00396 2016.1.25
『本朝神仙記伝』の研究(14) -漆部造麿が妻-
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漆部造麿(ぬりべのみやつこまろ)が妻は何氏なるを知らず。大和国宇多郡漆部里の人なり。 その性、廉潔にして清浄を好み、少しも穢れ無き好女なり。常に魚肉だに食せず、専ら菜蔬(さいそ)のみを食とせり。七人の子有れども、家貧にして衣服無きを以て、藤蔓(ふじづる)を用ひ、物を綴(つづ)りて身に纏(まと)ひたりと云ふ。
然(しか)れども日々沐浴を
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#00395 2016.1.19
『本朝神仙記伝』の研究(13) -宇度濱女仙・漁夫-
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宇度濱(うどはま)の女仙は何人(なんびと)たるを知らず。また何時の代と云ふことを詳(つまび)らかにせず。宇度濱に現れて、漁夫(あま)の妻となりしに依りて、世に知らるゝ事と成りたり。
今その大要を挙げむに、宇度濱は駿河国宇度郡に在り、即ち三保の松原とて世に知られたる名所のある所なり。この松原は西より東へ海中にさし出たること凡そ四十余丁にて
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#00394 2016.1.13
『本朝神仙記伝』の研究(12) -高麗山樵-
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高麗山樵(こまのきこり)は、相模国大磯に在る山下村の人なり。実は春嶽(はるだけ)山中に住む神仙の子にして、父を真珠男(またまお)と云ひ、母を白綿女(しらゆうめ)と云ふ。由(よし)ありて山下長者が祖(おや)たりし者に養はれて成長し、後再び山に入りて仙去せり。
今その大要を叙せむに、始め山下長者が祖たりし者、夫婦の間に子無きを歎き、相共に高
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#00393 2016.1.7
『本朝神仙記伝』の研究(11) -若狭八百姫-
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若狭八百姫(わかさのやおひめ)は、また八百比丘尼(やおびくに)とも白比丘尼とも云ふ。その姓氏及び父母を詳(つまび)らかにせず。若狭国小松原の人なり。小松原は小浜城の東の海辺に在り。
八百姫の父、ある日海に釣して魚を得たり。その貌(かたち)奇怪なりしを以て、棄てゝ食はず。八百姫、歳猶若かりしかば、拾ひてこれを食ひたりしとぞ。 然(しか)
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#00392 2016.1.1
『本朝神仙記伝』の研究(10) -水江浦島子-
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水江浦島子(みずのえのうらのしまこ)は、また筒川島子(つつがわのしまこ)とも云ふ。日下部首(くさかべのおびと)等の祖(おや)にして、丹後国與謝郡日置里筒川村の人なり。その容姿、秀美にして風流類無し。 雄略天皇の二十二年、島子独り小舟に乗り、海上に出て釣を垂る。一魚をだも得ず、即ち霊亀(あやしきかめ)を得たり。心に奇異の思ひを為し、舟中に留め
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#00391 2015.12.26
『本朝神仙記伝』の研究(9) -武内宿禰-
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武内宿禰は孝元天皇五世の孫なり。父は武緒心命(たけおこころのみこと)にして、母は紀伊国造(きいのくにのみやつこ)等が祖(おや)・菟道彦(うぢひこ)が女(むすめ)・山下の影姫なり。景行天皇の三年に生まる。
この御代の二十五年、宿禰、北陸及び東方の諸国を監察せられしこと、国史に見えたるを思ふに、その年二十三歳の時に当たり、かくてまたその御代
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#00390 2015.12.20
『本朝神仙記伝』の研究(8) -印南別嬢-
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印南別嬢(いなみのわけいらつめ)は、また播磨太郎姫(はりまおおいらひめ)とも称し、景行天皇の皇后にして日本武尊の御母に御座(おわし)ます。
印南別嬢、同天皇の五十三年五月四日、播磨国高宮にて薨(こう)ぜさせ給ふ。即ち墓を日岡(ひのおか)に作りてこれを葬り奉らむとし、その屍(かばね)を挙げて印南川を渡れる時、大嵐、川下より吹き来りて、その
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#00389 2015.12.14
『本朝神仙記伝』の研究(7) -日本武尊-
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日本武尊(やまとたけるのみこと)は一名(またのな)を小碓命(おうすのみこと)、また日本童男(やまとおぐな)と申す。景行天皇の皇子なり。母は皇后(おきさき)播磨稲日太郎姫(はりまいなひのおおいらひめ)なり。同天皇の十二年、大碓皇子(おおうすのみこ)と一日に同胞(おなじえな)にして双生(ふたご)に生まれ給ふ。天皇、異(あやし)みて碓の上に誥(たけ
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#00388 2015.12.8
『本朝神仙記伝』の研究(6) -倭姫命-
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倭姫命(やまとひめのみこと)は垂仁天皇の皇女(ひめみこ)なり。御母は丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の女(むすめ)・日葉酸姫命(ひはすひめのみこと)なり。同天皇の二十五年三月、倭姫命を以て、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に代りて天照大御神を斎(いつ)き奉らしめ給ふ。
これより前(さき)、天照大御神の神鏡(みかがみ)を始め奉り
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#00387 2015.12.2
『本朝神仙記伝』の研究(5) -賀茂別雷大神・玉依姫命-
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賀茂別雷大神(かものわけいかづちのおおかみ)は賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)の孫にして、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を母として生出(あれいで)給へり。始め建角身命は日向国の曾峰(そのみね)に天降り給ひ、神武天皇御東征の時、御前に立ちて大倭(やまと)の葛木の峰に宿り給ふ。 彼処(かしこ)より漸(ようや)く山背国(やましろのくに)
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#00386 2015.11.26
『本朝神仙記伝』の研究(4) -椎根津彦-
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椎根津彦(しいねつひこ)は、本(もと)の名を珍彦(うづひこ)と云ふ。神武天皇御東征の時、天皇自ら船師(ふないくさ)を率ひて筑紫の日向国を打ち立たせ給ひ、速吸(はやすい)の門(と)まで進ませ給へる時、亀甲(かめのせ)に乗りて釣を垂れつゝ、打羽(うちわ)と云へるものを挙げて寄り来る者あり。
天皇遥かに御覧(みそなわ)してこれを呼び寄せ、「汝
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#00383 2015.11.8
『本朝神仙記伝』の研究(1) -饒速日命-
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(清風道人云、『本朝神仙記伝』は、宮地水位先生の仙去後に神仙道の道統と学系を紹統された方全霊寿真・宮地厳夫先生が、多忙な公務の余暇を利用しながら三十年以上の歳月をかけて編纂された書で、神仙の道を成就したと認められる邦人・二百数十人の生涯について解説されたものですが、その第一話として饒速日命(にぎはやひのみこと)に関する伝を抄出したいと思います。
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