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以前の記事 : 2016年10月
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#00442 2016.10.29
『本朝神仙記伝』の研究(60) -白鳥永徳-
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白鳥永徳(しらとりえいとく)は、讃岐国白鳥の一向宗なる某寺の住職なり。永徳その宗旨に拘はらず、寺を出て四国霊場を巡拝し、終に我が寺に帰らず、安宅(あたか)の海岸に巌窟(いわや)あり、これに入りて住み、日に一度食を乞ひ、巌上に伏して一重(え)の衣の外(ほか)身にまとはず、妻子訪ね来(きた)れども逢はず。
この所は、北は大海・播磨灘に対し、
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#00441 2016.10.23
『本朝神仙記伝』の研究(59) -雲居官蔵-
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雲居(うんこ)官蔵は、また雲虚観蔵とも書く。日向国霧島山に住む仙人なり。元は鹿児島藩侯に仕へし武士・平瀬新右衛門(しんうえもん)の第三子にして、その名を平瀬勘兵衛紀武乗(きのたけのり)と呼ばれし人なり。 聊(いささ)か不平のことありて、官禄を捨て世を遁れ、この山に隠れて人に見(まみ)えず、仙道を求めて修練すること数十年を経過し、大いに得る所
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#00440 2016.10.17
『本朝神仙記伝』の研究(58) -三石山仙翁-
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三石山(みついしやま)の仙翁は、その元、何人(なんびと)たりしを知らず。僧・覚林なる者、この山に入り、その仙翁に遇ひしことありしを以て、初めて世に知らる。
抑々(そもそも)この三石山は、大隅国肝属郡(きもつきごおり)後田村に在る高山にて、この山西は恰良郷(あひらごう)に続ける頗(すこぶ)る大なる山なり。恰良は『国史』には吾平山(あひらや
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#00439 2016.10.11
『本朝神仙記伝』の研究(57) -長谷川角行-
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長谷川角行(かくぎょう)は肥前国長崎の人なり。父は長谷川左近太夫(さこんだゆう)久光と云ふ。母は二条清安の女(むすめ)なりと云ふと雖(いえど)も、その実、詳らかならず。天文十年正月辰の刻に生まる。 始めその父母、応仁以来、天下大乱打ち続きて、万民塗炭に苦しむを歎き、「如何にもしてこの兵乱を鎮むべき程の一子を授け給へ」と天地神明に祈請し、丹誠
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#00438 2016.10.5
『本朝神仙記伝』の研究(56) -栗山何某-
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栗山何某(なにがし)は相模国田村の人なり。その父母を詳らかにせず。 慶長年間のことゝか、栗山嘗(かつ)て天満大自在天神宮を信じ、手跡(しゅせき)をよくせむことを祈る。ある人、栗山に問ひけらく、「汝、日夜至誠を凝らして菅公の神霊を仰ぐ、その験(しるし)如何に」と。栗山即ち筆を執りて、都府楼(とふろう、大宰府政庁)の詩を書す。手跡の美妙、云ふべ
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