|
|
|
#00537 2018.6.1
君子不死之国考(10) -君子不死之国の遺風-
●
|
さてまた、この不死之国の本邦なるに、思ひ合すべきことあり。 それは、『魏志』の『倭人伝』には本邦人の長寿なる事を挙げて、「ソノ人寿、或ハ百年、或ハ八、九十年」と云ひ、また『晋書』の『夷列伝』にも、「人、多ク寿シ百年或ハ八、九十年」と云ひ、『南史』の『列伝』にも、「多ク寿ナル者ノ、或ハ八、九十年ニ至リ、或ハ百歳ニ至ル」と云ひ、『梁書』の『列伝
|
|
カテゴリ:君子不死之国考 |
続きを読む>>
|
|
|
|
|
|
#00536 2018.5.26
君子不死之国考(9) -徐福の伝承・下-
●
|
然るに、この徐福が止まりたる地は、実際本邦に於て何処ならむと云ふに、松下見林(けんりん)の『異称日本伝』に、「夷州、澶州(せんしゅう)、皆日本ノ海島ヲ指ス。相伝フ、紀伊国ノ熊野山下、飛鳥ノ地ニ徐福ノ墳有リ。マタ曰ク、熊野新宮ノ東南ニ蓬莱山有リ、山ニ徐福ノ祠有リ。コノ祠、熊野大権現ニ属ス。権現ハ神代ノ明神ナリ。国史式条ニ書シテ昭々タリ。徐福、国
|
|
カテゴリ:君子不死之国考 |
続きを読む>>
|
|
|
|
|
|
#00535 2018.5.20
君子不死之国考(8) -徐福の伝承・中-
●
|
以上は、秦の徐福が来(きた)れる蓬莱山と云ふは、全く本邦の事なりとの考証なり。 然るに、この考証を要するまでもなく、既にこの明治二十四年よりは、凡そ九百三十年の昔、漢土・後周の時代に於て、斎州・開元寺の義楚と云へる僧が編集せる『義楚六帖(ぎそろくじょう)』の「国城州市部」に、「日本国ハ、マタ倭国ト名ヅク。東海中ニ在リ。秦ノ時、徐福、五百ノ童
|
|
カテゴリ:君子不死之国考 |
続きを読む>>
|
|
|
|
|
|
#00534 2018.5.14
君子不死之国考(7) -徐福の伝承・上-
●
|
以上挙げる所は、多く漢籍を例証としてこれを云へり。然るにこの事、我が国史にもまたこれを載せたり。
それは、『文武天皇紀』に、「慶雲元年七月一日、正四位下(しょうしいのげ)粟田朝臣真人(あわたのあそみまひと)、唐国ヨリ至ル。初メ唐ニ至ル時、人有リ、来(きた)リ問フテ曰ク、『何レノ所ノ使人ゾ』、答ヘテ曰ク、『日本国ノ使ナリ』ト。(中略)唐人
|
|
カテゴリ:君子不死之国考 |
続きを読む>>
|
|
|
|
|
|
|
|
#00532 2018.5.2
君子不死之国考(5) -不死之民-
●
|
かくて『山海経(せんがいきょう)』の不死之国の註に、「甘木(かんぼく)ハ即チ不死之樹。コレヲ食ヘバ老ヒズ」と云ひ、また『海外南経』の「不死之民ハ黒色寿ニシテ死セズ」と有る註にも、「員丘山有リ。上ニ不死之樹有リテ、コレヲ食ヘバ乃(すなわ)チ寿(いのちなが)シ」と有るを思ふに、不死之国・不死之民の同所なる事は、既に上に云へる如くなれば、この「甘木
|
|
カテゴリ:君子不死之国考 |
続きを読む>>
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|