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#00443 2016.11.4
『本朝神仙記伝』の研究(61) -義斎-
 
 
 義斎(ぎさい)はその姓氏を知らず。医を生業(なりわい)とする老翁なり。後桜町(ごさくらまち)天皇の明和・安永の頃、摂津国豊島郡麻田(てしまごおりあさだ)と云へる所に住みたり。
 元加賀国の産まれにして、久しく京都に在りて医術を学び、一所不住にして只管(ひたすら)遍歴したりしが、終に老年に及びて何某侯より棒禄を賜り、麻田に移りて住みけるとぞ。

 義斎専(もっぱ)ら仁心深く、遠きとなく近きとなく、貧家に病人ある時は必ず行きて良薬を施し、病治するに及びても更にその謝儀を受けず。極貧の者には我が家より米薪等送りてこれを救助し、病のため家産を失ひたる者には資本(もとで)を与へて生活の生業に就かしむ。麻田近郷(きんごう)二、三里が間の貧者にして、義斎が恩を蒙らざる者は殆ど稀なりしと云ふ。

 ある日、領主聊(いささ)か風邪気(かぜけ)にて、義斎を呼ばれけるが、義斎の衣服の余りに垢染(あかじ)みたるを見て、「彼に衣服を取らせよ」と云ひけるにぞ、近侍の者、領主の御衣服一重(ひとかさね)を持ち出て義斎に着せたり。
 義斎は謹みて退きけるが、家に帰る路の辺(ほとり)に、一人の老乞食の、病に苦しみ呻き居るを見て哀れに思ひ、懐より薬を取り出して乞食に与へ、「今日の寒気に、汝の破れ衣にては堪へ難かるべし、これを着よ」とて、上に着たりし衣服一重を脱ぎて乞食に着せ、「翌日もまた来て見て遣るべし、大事にかけよ」と云ひ棄てゝ家に帰りぬ。

 次の朝、巳(み)の時ばかりに、義斎御殿に出むとてこの所を通りけるに、二、三人の下侍(しもざむらい)、かの乞食を捕らへて太(いた)く殴打し居る故、「如何なる訳ぞ」と問ふに、下侍ども云ふ、「この乞食、殿の御衣服を盗み着し居(おり)たる故に、打ち殺し棄つるなり」と喚(わめ)きける。
 義斎驚き、「それは以ての外のことなり。この御衣服は昨日我が与へたる所なり。昨日は寒気余りに強く、思はず上衣を脱ぎて与へしは、全く愚老が誤りなり、決(きわ)めて他が盗みしにはあらず。しかし、かくの如き疑ひを掛けられむは気の毒の至りなれば、直ぐに我が衣と取り換ふべし」とて、義斎路上にて赤裸になり、我が衣服を脱ぎて乞食に着せ、今まで乞食が着たりし御衣服を脱がせて、そのまゝ我が身に纏(まと)ひ、帯結び羽織を打ち着てそのまゝ御殿に出にけり。下侍どもはこれを見て、唯呆然として居たりしとぞ。

 元来、義斎かゝる行状(おこない)の老人なれば、上に仕ふることを物憂く思ひ、時に触れては辞退を願ひけれども、領主惜しみて免(ゆる)されず。義斎は何卒(なにとぞ)してこの所を遁れ去りたきものと思ひ、ある時病気と披露して出仕せず、四、五日を経て病死の由(よし)、僕(しもべ)を以て届出させければ、やがて検視の役人参入すべしとのことなり。
 義斎驚き大いに困じ、急に棺を整へ、その内に入りて蹲(うずくま)り居たりける。程無く検視の役人来りけれども、最早(もはや)棺に納めて正し置きたるを見て、深くも監査せずして帰りけり。

 かくては葬式を執り行はでは悪しかるべしと、俄かに墓所へ人を馳せて、形ばかり葬礼を為さむとするに、見送りの人、多く来(きた)りて混雑しけり。さて棺を荼毘舎(だびや)に入れて蓋を開きければ、内より義斎這い出て、「我、未だ命数尽きず、司命の神の許しを受けて蘇生(よみがえ)りたり」と云ひて、人々を突きのけ、火房(ひや)を出て行方知らずなりしが、その後、麻田より二、三里ばかり隔たりし岡と云へる所に、この義斎に帰依の者ありて、またこゝに家を造りて住まはせける。
 前の主君もこれを知れども咎めも無し。尤(もっと)も岡は麻田の近辺なれども、新免領とて他領の地にてありしなり。こゝに住むことまた多年なりしが、貧人の病を治療し、米薪を送りて困窮の人を救ふこと、前の時に異なること無し。

 然れども、前(さき)には領主より送る棒禄ありしに、この度は全く一人の活業なるのみならず、人に施すを以て常となしけるにも、遂に我が家貧しくなりて、諸所に負債も多くなりつる。
 この近き辺りに奥新田と云へる所あり、こゝに六右衛門と云へる農夫あり、家大いに富めり。ある時この六右衛門病に犯され、百方医術を尽くして治療を受くると雖(いえど)も少(いささ)かも効験無く、四、五輩の名医孰れも断りて、薬を与へずなりしかば、やがて義斎が方へ頼み来れるにぞ。

 義斎速やかに行きてこれが診察をなし、即ち云ひけらく、「この病、実に大患なり。四、五輩の名医の断りたるも尤ものことにて、十死決まりて一生無し。しかしながら、我、もしこの大患を全治せしめたらむには、汝、何とかするや」と。六右衛門苦しき息の下より、「もし本服することあらば、厚く大恩を報じ奉らむ」と云ひける。義斎やがて両服の薬を与へて帰りぬ。
 六右衛門この薬を服しけるに、臭気甚だしくして堪へ難し。然れども忍びてこれを服しけるに、次の日、大いに黒色の両便下り、立ち所に心爽やかになりぬ。而(しか)して後、猶数十服の薬を用ひ、二十日ばかりにして全快しけり。六右衛門只管(ひたすら)に悦び、ある日、金一円を僕(しもべ)に持たせて、報謝として義斎が方へ贈りけり。

 義斎これを見て、大いに叱りて云ひけらく、「六右衛門が一命、円金一つにて買へるなり。さても安き命なり、然様(さよう)に安き命あらば、我等も多く買ひ置きたし。汝、帰りてかくの如く告げよ」とて、報謝はそのまゝに返しけり。
 六右衛門これを聞きて大いに困じ、「これ尤もの理(ことわり)なり。如何にしてよかりなむ」と、一向に商議整はず、詮方(せんかた)無くて六右衛門自ら行きて、義斎に見(まみ)え、「この度、小僕(こやつ)が命助かりしは、全く先生の賜物なり。如何にしてこの報ひを致さば宜しからむ。願はくば先生の思召(おぼしめ)す所を教へ給へ。如何にも尊命に随ひ奉らむ」と云ひければ、義斎云ふ、「然らば、我が家に聊かの負債あり、米屋薬店等なり。これ等の負債を残らず汝が方より払ふべし」とありけるにぞ。

 六右衛門、米屋薬店その他七、八軒馳せ廻り、負債残らず済ませける。かれこれ五、六十金を以てせり。六右衛門再び義斎が家に至り、かくと語りければ、義斎悦びて「汝、命助かりたるのみならず、また二十年余の寿を増したり。その謂(いわ)れは、かの米屋薬店等の負債は、我、数十家の貧人に施したる米薬の余借なり。汝、今これを償ふ、この余徳、汝が身に報ゆべきなり」と云ひけるにぞ。六右衛門これを聞きて大いに悦び帰りけり。

 ある日、また前の主君より侍二人来り、再度召し返させ給ふべき由を述べければ、義斎これを憂事(うきこと)に思ひ、使の侍を一室に待たせ置き、何処ともなく逃げ去りけり。使の侍、夕暮れまで待ちけれども帰らざりければ、是非なく空しく帰りけり。
 義斎が近隣の人々、大いに驚き、此処(ここ)彼処(かしこ)訪ね廻り、漸く刀根山村と云へる所の、ある家に隠れ居るを見付け出しける。然れども再び岡の家に帰らず。
「されば家財雑具等はいかゞなさむや」と問へば、義斎答へて、「我、家を棄てゝ逃げ出しければ、最早我が家にあらず、汝等いかやうとも計らへ」と云ふにぞ。詮方無くて近隣の者寄り集まりて、家屋及び家財雑具に至るまで売りけるが、中には商売なる薬等多かりけるにぞ、若干の黄金を得たりける。

 近隣の者、また黄金を持ち行きて、義斎に「渡さむ」と云ひければ、「我、棄てたる家の金、何ぞ我が物ならむや」と云ひて更に受けず。近隣の人等大いに困じ、かれこれと商議し、同村の農夫に、困窮に陥り、田地を売らむとすれども買手無く難儀に及ぶ者あり、然ればこの田地を買ひ取るべしとて、その金にて買ひ取りけるが、半作分けと云ふ約束にてかの田地を作らせける。
 次の年の秋、豊作にて、半作の米、案外多かりけるを金に代へて、また刀根山村の義斎が方へ持ち行けるが、義斎前の如く云ひて一向に受けず、詮方無く持ち帰り、様々と商議し、酒肴を多く買ひ求めて、村中の老若男女皆打ち集ひ、大いに宴を張り、歌ひつ舞ひつ三日が間、大いに騒ぎて漸く金を使ひ果たしぬ。

 その次の年、また半作の金出来たるが、村の人々打ち集ひて商議して云ふやう、「この金を以て村中の者の飲食の料(しろ)に供するも、何となく心無きに似たり。義斎は実に神の如き老人なれば、今この作徳の黄金にて一個の社を建立し、義斎を神に祭るべし」と一決して、それより大工に誂(あつら)へて、村の片辺(かたほとり)に一つの社を建立し、義斎明神と祭りけり。また次の年の作徳にて、義斎祭と云ふことを始めけるが、その後絶へずこの祭を行ひけるとぞ。

 かくて義斎は何時しか刀根山にも在らずなりて、行方知れずなりにけり。この義斎極めて老人にて、その齢(よわい)を問ふ人あれば、「我、朝(あした)に生まれて夕(ゆうべ)に死し、夕に死して朝に生まる。何ぞ幾歳と云ふことを知らむや」と云ひけるが、その容貌を見るに、頗る健全にはあれど、兎に角百歳以上の人と思はるれば、「孰れ仙人ならむ」と人々云ひ合へるとかや。

 厳夫云、本伝は『百家琦行伝』に挙げたるを採りてこゝに載せたり。この義斎は加賀国の生まれとまでは知られたるも、如何なる人の子にして何姓氏の者なるや更に解らず、久しく京師にて医術を学びたりと云ひ、一所不住にして只管(ひたすら)遍歴したりと云ふ上より考ふれば、加賀国の産まれと云へるも確実なるや否や定かならず。

 その仁心深くして、遠近となく貧家の病人に良薬を施し、米薪等までも救助して、近郷二、三里の間の貧者にて、義斎が恩を蒙らざる者は稀なりとあるが如き、また仕ふる所の領主より賜りし衣服を、途中の貧乏乞食に与へたる始末の如き、また辞退すれども許されざるに困じて病死の届け出を為し、遁れて近郷の岡村に住みたる事蹟の如き、また衆医の見捨てたる六右衛門が大病を引き受けて平癒せしめ、その報ひに、我が慈善に施したる薬米等の負債になりたるものを彼に払はしめたることの如き、その他一点の私欲無くして、為すこと行ふこと、実に善功ならざるは無く、結局始め仕へし領主が、義斎が豊島郡岡村に今猶住めると聞きて、再び召し返しの使を遣りたるに、これに遭ふが否なりしか、その使を待たせておきながら、我が家並びにその財産までをそのまゝに棄て置き、何処ともなく逃げ遁れて身を隠したるが、後に程遠からぬ刀根山村に居ることの分かりたるより、岡村の百姓ども訪ね行きて、帰宅を請へども諾(うべな)はず、その家屋財産雑具等の始末に困りて、義斎はその身未だ現世に在りながら、一つの社を設けて義斎明神と祭られ、その後年々絶へずこの祭を行ふことゝなりしに、義斎は何時しか形を隠して行方知らずなりきとあるのみならず、百歳以上の人なるべきに、その容貌の頗る健全にてありきと見えたる等思ふに、これは本書に載せたる甲斐徳本と均しく全く得道の神仙にして、暫く医に隠れたるものなるべし。

 猶この義斎と甲斐徳本とのことに就きては大いに云はま欲しきことあれど、それは徳本の伝に至りて合せ云ふ方、便利なるを以て、彼処(かしこ)にて云ふを見るべし。
 但し義斎は神仙の中にても、殊に勝れたる神仙にてありしならむ。それは同人が仁心深く、貧民を救ひて善行を勤め、大いなる功徳を立てたると、その塵世の穢れに少しも染むこと無かりし跡に就きて知るべし。
 されば当時、これを知るの道士ありて、密かに就きて学ぶには大いに得る所の有りたらむを、然ることの無かりしは実に惜しむべきことにこそ。

(清風道人云、義斎が棺より這い出た際の「我、未だ命数尽きず、司命の神の許しを受けて蘇生りたり」という機知に富んだ言葉からも、この老翁は一般人が知り得ない司命の秘機に通じた神仙であったことが窺われます。 #0322【『異境備忘録』の研究(7) -宇内の大評定-】>> #0326【『異境備忘録』の研究(11) -「運命」の正体-】>> )
 
 
 
清風道人
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