|
#00731 2021.8.18 |
奇蹟の書(6) -人体光線-
|
 |
心霊体が光輝ある電磁性の放射物を有することの発見者は、イタリアの科学者ライヘンバッハであった。それは今から約六十年前のことで、彼の研究は当時一部の人に驚異的な好奇の熱心さで実験を重ねられてゐた催眠術の応用に基いた発見であった。 ライヘンバッハが心霊体から色のついた光線が放射されると言ったのは、自身が視たものではなくその実験人たる被催眠者の心眼に映ずるところのものであった。彼はこれをオードと名付けた。しかし彼の反対の科学者は、被催眠者の心眼にて見ると云ふことには信用を置かないで、皆以て自己暗示の結果に幻覚を発したものだと嘲笑をした。けれどもライヘンバッハは、一八六六年から約十二ヶ年間の研究に依って自説の誤りなきことを固信したのであったが、遂に報はれてその説の真実なることが世に認められる時期が来たのであった。
ライヘンバッハの使用した実験人はソフィーバウルなる婦人であったが、その実験の結果は、人体の右側からは青色の光線が発射し、左側からは赤黄色の光線が発射することを認知した。 また或る日、暗室内にて馬蹄形の磁石をソフィーバウルに見せたところ、その北極からは青みある光が射出し、南極からは赤黄色の光が射出されて、何れも三、四寸の長さを以て、美麗に輝いて居た。他日また極めて異なった強力な磁石で試験をしたときには、光線の長さが二尺にも及び、その上方には美麗な気体の円柱が現れて天井に達した。この磁石の両極からの異なった色の光線と、人体の左右の異色の光線とが類似をして居ることは、頗る重要なものである。
ライヘンバッハの実験が評判になって、一八八三年にロンドンの心霊研究会でも実験したところ、英国人は大陸人よりも視力が劣ってゐるのか、暗室に入った四十人中で磁光を見た者は僅か三人しかなかったので、当時はまだ懐疑派であった有名な生理学者のカーペンターなどは、心理学者と共にこれを幻覚だと論じた。 ライヘンバッハはこれ等の反対派の嘲罵(ちょうば)声に無関心で、益々その実験を重ねて行き、オードは人体ばかりでなく動植物及び或る種の鉱物や石からも見出されることを知った。彼はまた、化学的な実験や騒音とか摩擦とかゝら生ずるオードを写真に撮ることに成功した。かくて彼はオードは万物に有ると云ふ結論を下し、万物有生論をも唱へ出した。
ライヘンバッハの説によるまでもなく、人間の思念力が物体を動かすのは、このオードの磁力的な能力のためであることは明白である。またオードは宇宙に遍満して万物に感受を与へるとも云ふても居るが、或る程度まで真実であらねばならぬ。吾々の考へでは、人体には神経内にオードの巣があるのではないかと観て居る。尤も神経の通じて居る脳髄の内にもオードはあるには相違ないけれど、その分量は非常に僅少であらうと想はれる。 またライヘンバッハは云ふ、オードは採集し得べきもので、これを人に注入してその磁力を感受させることが可能だ。その場合には被術者は術者の思ふ通りな官能の感性を発せしめることが出来る云々と。 またライヘンバッハの実験では、大理石の棒も一度オードの中に浸けられると、塩酸、硝酸、硫酸などの中に置かれても毫(ごう)も変質せず、また最初にオードをかけて置いたならば白熱の中に挿入した鉄の棒が溶解し、或は水が沸騰し、紙が焼かれて灰になっても、何時までも本来の性質を失はないとのことである。
或るとき彼は、催眠術をかけられた人から出るオードの中に写真乾板(かんぱん)を置き、然る後にその乾板に被術者を撮影し、そして乾板のゼラチンを掻き取って写真の一部を傷つけた。すると三分ばかりの後に写真された人の体は、乾板にて傷つけられた所と同じ所へ掻き傷が現れた。 この乾板に掻き傷がつけられたことは、写真された人には知れぬやうにして行はれ、また掻き傷を与へる人も眼を閉じて盲(めくら)さぐりに爪でやったので、双方とも傷の箇所を知る筈が無かったのだ。
フランスの心理学者で心霊研究家であるド・ロシヤ氏が、オードに就て偶然にも珍奇な現象を発見したことがある。冬の或る日、彼は二人の婦人からオードを採って、器物の水の中へ蓄へたが、その夜の深更(しんこう)にこの容器の水を窓の外に捨てた。 すると翌朝、その婦人の一人が死人のやうに蒼い顔をして来訪し、這ふやうにして喘ぎながらド・ロシヤ氏の部屋に入り、自分もモウ一人の婦(おんな)も昨日の真夜中から全身が氷の中に居るほどに冷え切り、死ぬるやうに苦しいと訴へた。ロシヤ氏はハッと気がつき、昨夜窓の外に捨てた水のことを想起し、直ちに窓の外を見ると、その水は庭の石に注がれて居たが、寒気のため氷凍して石の上にヘバり付いて居るのを見た。
これ等の事実によって、一派の思想家は生命の源泉はオードだとさへ思ふやうになった。彼(か)の文豪マーテルリングなどはその一人である。マーテルリングはオードが「モノイデイズム」と称するものに変形されてから異常な治療能力を得、且つ新たに物質が組成され、黒子(ほくろ)や痣(あざ)が発生し、何所へ運び行かれても驚くべき能力が発揮されるとして、ひどく驚嘆の記述を公にして居るが、世の中の行者だの祈祷師などの現す奇蹟などを一概に妄談だとして一蹴する今の科学者たちは、精神科学に対してあまりに無智ではあるまいか。 今日の科学者が心霊の本質に理解を持つことになれば、社会の文化は異常な発達を見る筈である。まことに惜しむべきものである。
その後、米国の電気学者ラス氏は、人の眼から物体を動かしたり物質を透過する奇妙な光線の放射されることを報告した(我国では古来、神道家にして眼力にて人や動物を射すくめ、或は重い物体を移動させたり、動くものを停止せしめる者がザラにある)。 次に一九〇九年に英国の一技師キルナー氏は、コールターから製出したデシヤニンなる染料をアルコールで溶き、これを二枚のガラスに塗り、それで人体を検照することに依って、人体から厚さ一寸乃至(ないし)三寸に及ぶ光層が数段あって、大きな後光の輪郭を為すのを写真に撮った。彼はこの放射物を紫外線の一種だと想った。
デシヤニン鏡によって見得る人体光線は、情緒によってその光度を異にし、婦女子は随意に変色せしめることも知られた。将来、これを以て人の感情を測定する機械が生まれるであらう。また心霊光線のスペクトルが成就して、人間の性質、犯罪の有無なども容易に検出されるやうにならう。 また古くから我国の神道家の内には、手の指頭(主として人差指)より強烈なる霊気の流出するのを知って居る人がある。この霊気もまた光輝物たることは想像に難くない。吾々の実験するところでは、人差指より放射する霊気は一秒に普通二尺内外の速度を持ってゐるやうであるが、時としては物体に衝突してパシリと云ふ鋭い奇響を発することもある。
かく人体の各所より多少性質の異なった霊線を発することにより、心霊体の組織が全部同一でないことが窺はれる。数種の人体光線中に於て、いはゆる霊力の最も強いのは眼球より発するもので、次が人差指より発するものである。人差指より発するものと性質のあまり異ならぬ霊波が掌からも発する場合がある。 すべて心霊の波動の体外に逸するのは、その人の精神の減耗を意味するものであることを知らねばならぬが、睡眠時間には覚醒中よりも霊波の散逸が著しく少量なものである事と知って居る必要がある。
人体外に逸去した心霊の光波はそれきりに何の力も無いものかと云ふと、決してさうではなく、空中に於て矢張りエネルギーの作用を為し、その一部は吸入されてまた人体に還るのである。 心霊の光波といふことは心霊自体が発行体であることの証拠であるが、その心霊体を組織する霊魂原素は燈火や太陽光線には弱いのが普通であるけれど、霊体の凝集力の強いのは燈火や太陽に照らされても安全である。 #0157【『仙境異聞』の研究(22) -穢火は魂をも穢す-】>> #0239【『幽界物語』の研究(9) -仙境の気候-】>> #0485【扶桑皇典(15) -諸神-】>>
一八七三年、英国の交霊術者フローレンス・クックに依って屡々(しばしば)出現せしめられたケテーキングと云ふ少女の幽霊は、光線が少しでも強過ぎるとよく消失した。そして彼女その霊媒室へ回って、クックの体躯から清新な流動磁気性の媒質要素を集めて来てから改めて出直したが、その少女はそのときによく「光が強くてかういふ眩しさに慣れないから、顕像を全く消してしまった」と言った。 また一九〇三年、ロンドンにて或る日の夕方、霊媒者ドスペランス夫人が呼び出した美少女の幽霊ネペンセスは、ケテーキングよりも更に一段と光線を恐れた。多くの立会者の監視してゐる中で出現した顕像は、霊媒と相並んで室の隅の開放された窓の所へ歩んで行ったが、やがて日光の射し込む所まで来ると消え失せた。このときの状況をドスペランス夫人は以下の如く自記してゐる。
最初ふと室の一隅の一番暗い所へ眼をやった瞬間に、パッとした明るい雲状のものが立ってゐた。一、二分間それを眺めてゐる内に、光の一団は漸々(ぜんぜん)に一所に集合して何だか実質のあるものゝ様に凝固し、遂に美しい幼児の形になった。その顕像は体中から発する光明にて明るくなってゐるやうに見え、一線一画まで浮彫(うきぼり)の如くに明確であった。 而して私が霊媒私室に入るや否や、そこは蜘蛛の巣で充満してゐるやうな感覚が全身を捉へた。また汽缶から吐き出す蒸気の様な一種の白い光のやうなものが、下腹部の前で湧いて来て居るやうな感じがした。暫くしてその光の塊は数分間、彼方(かなた)此方(こなた)を往来してゐたが、突然停止してその中から一個の生物が生まれて来て私の側へやって来た云々。 |
|
|
|
|
|
|
|
カテゴリ:奇蹟の書 |
 |
|
|
|
▼関連記事一覧 |
 |
#00485 2017.7.20
扶桑皇典(15) -諸神-
●
|
諸神たちは、御壮容、万古不変におはしまして、御身には光明を湛へて坐すなるべし。神の御上を申さんは、畏(かしこ)しとも畏けれど、天照大御神の御光明は、天地の間を照らし給へりと申し、月読尊、素戔嗚尊の御光明も、天照大御神に次て坐せりと申し、味鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)の御光明は、二丘二谷の間に映じたりと申し、大国主神の和魂(にぎみた
|
|
カテゴリ:扶桑皇典 |
続きを読む>>
|
|
|
|
|
 |
|
 |
|
 |