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#00756 2022.1.15 |
奇蹟の書(31) -幽霊現象-
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幽霊といふ熟語は甚だ非学術的な造語である。心理学で厳密に云ふならば、苟(いやしく)も死者の心霊の顕現を認知すべき現象は、何ものをも幽霊と云って可なる訳である。しかし読者への便宜上、こゝには古来世人の心得てゐる通り、死人の生前の姿体の現れた事実を指して云ったのである。
総て幽霊は、吾々現界人に自己の姿を見せる必要の下に現れるのと、その意は無くて偶然見られる場合と二様ある。心霊研究会などで霊媒の流動的磁気を使用させて現す幽霊の如きは、総て前者に属する。今この章に書く幽霊は、死者の主動的自然現のものに限った。 #0308【怪異実話(24) -亡き妻と暮らした男のこと-】>> #0367【『異境備忘録』の研究(52) -墓所の幽界-】>> #0368【『異境備忘録』の研究(53) -神法道術の限界-】>> #0502【扶桑皇典(32) -亡霊・上-】>> #0503【扶桑皇典(33) -亡霊・下-】>>
明治の時代に、心理学者が幽霊に就て一個の解釈を世に発表し、それが今日も勢力を持ってゐる。その説に、死者の臨終の際に何か猛烈な意思を発したことがあるときに、その場の天井、壁、または家具などに一種のエネルギーとして漸次(ぜんじ)迹(あと)を留めるのだ。 そのエネルギーが後日そこへ来た人を衝動して死人の姿態を形成するだけのことで、その幽霊には何等の精神も無い、即ち単に物理的機械的な影ン坊だと言ふ。
この説は一寸(ちょっと)聞いては筋道が通ってゐるやうだが、実は独断の臆説で、意味の構成上に矛盾がある。物体に思念のエネルギーが散らばって附着して残って居るものが、どうして元の体の姿を組み立てるのか、説者自身で考へてみるがよい。 またそのやうな人々は、幽霊現象を以て幻覚だとしてゐるために、世の幽霊屋敷なるものゝ、永い年月の間に多くの人に幽霊が見られる事実に対しては、連続暗示などの仮説で解釈を与へようとする。 真実の幽霊中には、生前の肉体通りに血温までもある固体に凝化し、重量物(器物)の類をその手に掲げ歩く事実、すなはち心霊の物質化なる奇怪な現象などは、到底彼の頑迷にして幼稚な頭脳には受け容れないものだ。
物質化を為し得る死者の心霊はその力の特別に強いものに限られ、総ての死者が皆々そのことをやるのではない。多くの死者は心霊力が弱いために、幽霊姿を出さうと念じてもそれが出来ぬので困ってゐる。その者どもは止むを得ず夢に現れやうと腐心をする。首尾よく夢を見せても、雑夢として葬られがちであるから味気ない懐(おも)ひをする。
また夢を見せやうとしても、相手の体質によっては夢を形成させることが困難なのがある。そのやうな折りには叩音(ラップ)等といふやうな細い物音、または溜息の声などを相手の手近でやって注意を引かうと苦心をする。死者によっては姿を出して見せるよりも、物の音をさせる方が容易である。 無人の室内にて何者かの衣擦れの音がするなどのことが世間に偶(たま)にあるのは、矢張り幽霊現象である。
幽霊が昔から陰惨凄愴な感じを人に与へる主な動因は、人の皮膚に電磁的な衝動を与へる事実にある。これは当り前のことであるが、山形県の矢島村だけは昔から村民が幽霊を歓迎する奇風俗があるのは珍しい。 また幽霊中には自己が死者の内の一員となってゐることを自覚しないものが甚だ多いことを挙げねばならぬ。これは実に近代の心霊科学の研鑽が教へたことである。
また夜間の幽霊は此方(こちら)から言葉をかけやうとすると大抵は即時に消失するのであるが、これは此方の心霊の気が鋭く幽霊の体を衝いて、その組成の細胞をかき乱すからである。これに反して昼間に現れる幽霊は夜間のよりも霊素の力が強いので、言葉をかけられた位では容易(たやす)く姿を消すものではない。 幽霊は一般に太陽及び光波の強い化学的光線を避けたがる。しかし修養を積んだ死人の霊素は凝集力の強いために、真昼中にも物質化した固体を現出する力がある。尤もそれには守護霊の幇助(ほうじょ)があって出来る場合がある。死者の心霊を誘導幇助する責務を帯びた霊がやるものだ。
心霊は一種の物質であるから理学的な力の衝当を受ける。幽霊の頻繁な出現に困った著者(岡田建文大人)の郷里の一霊媒は、自己の考案にて火鉢で硫黄を燻(いぶ)し、予期以上の好結果を得たことを著者に告げたことがある。 また幽霊の心理的理力は、その幽霊として出現しない折りの心霊理力よりも弱いのであるが、その心霊理力の強弱は、老弱男女の相違と冥界生活の如何(いかん)によって一定しない。総則的に云ふときは、彼(か)の界に於て修養を積み向上の途にある霊は、地縛迷執な霊の為し得ぬ奇霊力がある。
昔の幽霊の多くはその深い妄執に悩みて出るのであるから、その状況は陰愁で憂鬱的であるけれど、これに反して陽気で怡楽(いらく)的で、甚だ感じの良い幽霊もある。 小児の幽霊といふものは甚だ稀であるが、母親に抱かれて出た嬰児の幽霊の事実はある。何故に小児の幽霊は稀であるかといへば、心霊力が弱いのと支配霊の手に養育されてその所から離れないためだ。
仮象物たる幻覚の幽霊と真物の幽霊とは、形に於てはさしたる定義上の相違はないけれども、幻視の幽霊は絵画や活動写真を見たやうな心感印象しか起こらぬけれど、真の幽霊は皮膚に受ける磁流的な衝動と自然的感傷の深刻さがあって、反霊派たる無経験人には到底味へない陰凄(いんせい)さ幽愁さがある。 一度でも真物に接した実験者に対し、何ほど巧弁(こうべん)を以てその迷信を説得しようとしても、彼の信念を覆すことは出来ぬに決まってゐる。 |
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カテゴリ:奇蹟の書 |
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#00503 2017.11.7
扶桑皇典(33) -亡霊・下-
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亡霊は神の如くにて、顕界の人と異なれば、亡霊に追はるゝ時は、隠るゝ事を得ず。 慶長年中、京に成田治左衛門といふ人ありて、夫婦の間も睦じかりしを、妻病みて死なんとする程に、夫の手を取りて、涙ながらに言ふやう、「形は煙と為らばなれ、魂魄(たましい)は永く御身の傍を離れん」といひて、終に空しく為りしに、死後、数日を経てより毎夜、治左衛門の枕頭に来
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カテゴリ:扶桑皇典 |
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#00502 2017.11.1
扶桑皇典(32) -亡霊・上-
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死後の神魂(たましい)は全く神の如くなれば、人智を以ては知られざる奇異なる動作もありて、一例をいへば、他の体を借りて自己の物とし、或は生ける人を数百里外に誘(いざな)ひ、或は瞬間に水陸を隔てたる夫の許に赴き、或は人にも祟り、人をも殺す事あり。
その、他の体を借りしは、越後の新潟に長尾何某(なにがし)といふ医者ありしが、この人、若年の頃、
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カテゴリ:扶桑皇典 |
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#00368 2015.8.8
『異境備忘録』の研究(53) -神法道術の限界-
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「先年、阿波国勝浦郡金磯新田村・多田氏の招迎によりて当家に滞泊の砌(みぎり)、同村某の子息十八、九歳なるが狂気を発して、種々様々の術を施せども全快せずとて、余(よ)に、「この狂気の鎮まりて平癒すべき祈祷を致し呉れよ」と云ふに、辞退すれども聞き入るゝ様もなくて、遂に招きに応じて、或る日の夕方にかの所に至りけるに、その夜は小松島と云へる所の神宮分教
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カテゴリ:『異境備忘録』の研究 |
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#00367 2015.8.2
『異境備忘録』の研究(52) -墓所の幽界-
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「墓所はその死者の魄霊の常に住む所にして、魂の幽霊となりて出現する時は、必ずその墓にて魄霊と合ひて人影を作るなり。墓所を畑として人糞など不浄物の穢れを掛くる時は、魄霊の魂に合する事難し。如何(いか)に恨みありともその念を達する事能(あた)はず。その不浄物を除き去りては人影を調(ととのえ)る事安ければ、憤りを達するなり。 又、霊魂の魄霊に合して
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カテゴリ:『異境備忘録』の研究 |
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