日本古学アカデミー

#00136 2011.10.30
『仙境異聞』の研究(1) -概略-

 


 『仙境異聞』は日本古学の泰斗・平田篤胤先生による著述ですが、先生が、ある山中の幽界に住むとされる杉山僧正(そうしょう)の従者である「仙童」寅吉と親しく起居を共にして養いつつ、山人界(さんじんかい)及びその他の幽界の実相や、多岐にわたる霊的な消息について問答し、それを筆録されたもので、同じように仙境に出入した島田幸安との問答を記された参澤宗哲明(みさわむねのりあきら)先生の『幸安仙界物語』と共に、江戸時代末期における幽界研究の二大資料といえるでしょう。(山人界とは、神武天皇の御世に創設された人間界に最も近い一幽界で、地上霊異の人物(いわゆる縄文人)の多くがこの界へ編入されたことが、明治の国学者・宮地水位先生によって伝えられています。 #0024【幽顕分界という歴史的事実】>> #0101【神代第四期のはじまり】>> )
 しかも『仙境異聞』の主役的存在である杉山僧正(すぎやまそうしょう)も、『幸安仙界物語』に登場する清浄利仙君(せいじょうりせんくん)も、後に水位先生とも深い交渉を有しており、水位先生も『異境備忘録』中で「水位もこの両仙の御導きによりて神界に至る事を得たり」と述懐されています。

以下、この『仙境異聞』の概略について、平田先生の文政三年(1820年)の手記より抄出してみたいと思います。(現代語訳:清風道人)

「寅吉の父は今から三年前にこの世を去った。その後は、寅吉の兄、庄吉(今年十八歳)が少しの商いをして母と弟妹を養ったという。
 寅吉の母によると、寅吉は五、六歳の頃より時々未然の出来事を話すことがあった。たとえば、下谷広小路に火事があった前日に、家の棟に上って「広小路に火事がある」と云った。人々が見ても何もないため、「なぜそんなことを云うのか」と問えば、「あんなに火が燃えているのに見えないのか、早く逃げないと」などと云うので、人々が寅吉は頭がおかしいと思ったところ、翌日の夜に広小路に火事が起こった。また、ある時父に向かって、「明日は怪我をするから用心せよ」と云ったのだが、父は信用しなかった。しかしその通り大怪我をしてしまった。またある時、「今夜は必ず盗人が入る」と云ったことを父が叱って、「そのようなことを云うものではない」と制したのだが、果たして盗人が入ったことがあった。また、まだ立つこともできず、這い回っていた頃のことを覚えており、それを語りだしたこともあったという。
 寅吉は生まれつき胃腸が弱くて幼少の頃は青白く、ちゃんと成長するのだろうかと思っていたのだが、今年、旅(仙境)から帰って来てからは、とても丈夫になったと語っていた。
 未然のことを知っていたことが奇妙に思われ、後に寅吉にどのようにして知るのかを尋ねたところ、「広小路が焼けた時は、その前日に家の棟から見た時に、翌日火事があった所に炎が上がって見えたのでそのように云ったのです。父が怪我した時や盗人が入った時は、何やら耳のあたりでザワザワと云うような感じがして、どこからともなく「明日は親父怪我すべし」「今夜は盗人入るべし」という声が聞こえたので、その通り口にしたのです」と云った。
 思うに「仙童」寅吉は、生まれながらにして仙としての異気を禀(う)けた者で、玄学上の用語でいう「主命仙宿に値する者」である。宿命そのものが仙を得るべく定命を得て生まれ出てくるので、そうした精気を禀け、天命を享けて生まれるから、これを受命ともいう。
 道書の『抱朴子』に、「仙を得る者は、皆その命を受くるや、たまたま仙の気に値(あ)いて自然に禀(う)くる所あるなり。故に胞胎の中に既に道を信ずる性を含めり。その道を識(し)ること有るに及びては、即ち心にそのことを好み、必ず明師に遭いてその法を得る。しからざる者は、即ち信ぜず求めず、求むるともまた得られざるなり」とあるのはこうした消息をいったもので、寅吉も修道上の明師に遭遇する機会に恵まれた。それは彼が七歳の文化九年(1813年)のことである。
 その年の四月、寅吉が東叡山の下で遊んでいたところ、五条天神のあたりで五十歳ほどに見える旅姿の老翁が、小壷から丸薬を取り出して売っていたのだが、取り並べた物や敷物まで全て小壷に入れ、遂には自らも小壷に入ろうとした。その様子を見ていたところ、片足を踏み入れたように見えたその瞬間、全て入り、小壷も虚空に飛び上がってどこかへ行ってしまった。
 寅吉は奇妙に思ってその後もそこに行って夕暮れまで見ていたのだが、ある時その老翁に言葉をかけられ、「お前もこの壷に入れ、面白いものを見せてやろう」と云われた。寅吉は気味が悪くて一度は辞退したのだが、「この壷に入ってワシと一緒に行けば卜占(ぼくせん)のことを教えてやろう」と云われ、もともと卜占のことを知りたかった寅吉は、行ってみたいという気持ちになり、壷の中に入ったような気がした途端、日もまだ暮れていないのに、どこかの山の頂に至った。
 しかし幼い頃のことだったので、夜になるととても両親が恋しくなって泣き出してしまい、老翁がなだめてもさらに声を上げて泣くので、「ならば家に送り帰してやろう。しかしこのことは誰にも語ることなく、毎日五条天神の前に来るのだ。私が送り迎えして卜占を教えてやろう」と言い聞かせて、背負って目を閉じさせ、大空に昇ったのだが、ザワザワと鳴るような気がすると、すでに家の前であった。ここでも「このことは決して人に語ってはならない。語ればお前の身のために良くない」と諭(さと)して、老翁は見えなくなった。それ以来、寅吉はその戒めを固く守り、父母にもそのことを話さなかったという。
 さて、約束通りに翌日の昼過ぎ頃、五条天神の前に行くと例の老翁が来ており、寅吉を背負って山に至ったのだが、何も教えず、いろいろな山々に連れて行って種々のことを見覚えさせ、花を折り、鳥を捕り、川の魚などを取って寅吉を慰め、夕暮れになると例のように背負って帰った。やがて寅吉は岩間山という山に連れて行かれ、今の師(杉山僧正)に付くこととなり、まず百日断食の修行を行い、弟子となるための書状を書いたのである。
 その後寅吉は、書法や武術の法、また神道に関すること、祈祷や禁厭(まじない)の法、符字の記し方、幣(ぬさ)の切り方、医薬の製法、種々の占法、仏道諸宗の秘事経文、その他様々なことを教えられた。その際にはいつも例の老翁に送迎してもらったが、両親を始め人にはそのことを語らず、もちろん教えを受けたことも明かさなかったので、誰も知る人はいなかった。そのうち黙って家を出ても尋ねられもせず、十日から百日ほども山にいたこともしばしばあったのだが、どういう訳か両親を始め家の者たちは、寅吉が久しく家にいないとは思わなかったようである。
 このように山に往来したのは、寅吉が七歳の夏より十一歳の十月までの五年間だが、この間に師のお供をしたり、また師に従う兄弟子にも伴われて種々の国々も見回った。十二、三歳になると往来はせず、ただ時々師がやって来て教えられるのみとなった。」

 「仙童」寅吉が未然の出来事を感知できたのは、魂が発動して幽界に通じていたためで、このことからも、彼が人間以上の霊徳を備えた「仙」であったことがうかがわれます。 #0023【この世界だけがすべてではない】>> #0025【密接に関わりあう顕と幽】>>
 また、七歳の少年に対して百日断食という辛い修行をさせ、弟子となるための書状を書かせるなど、山人界の厳然とした掟律が見受けられます。断食行は原始仏教の開祖である釈迦も行いましたが、これは心身共に清浄になって人間界から高次元の界へ遷るための行法です。 #0051【尸解の神術】>>
 
 その後、寅吉は師の命によって禅宗寺へ寺奉公に出たのですが、仏寺を選んだのは当時教育機関が乏しかったためと、また仏教というものを知らしめるためと思われます。そして文政二年(1819年)五月二十五日、寅吉は再び師に伴われて岩間山の幽境に入り、文政三年三月、また現界に出るに際して、師から次のように訓戒を受けたことが伝えられています。

「今からしばらく家に帰るのだ。里に帰っても、人はただ一つに心を決めることが大事であるから、邪の道に踏み入れることなく、神の道の修行に心を凝らすのだ。お前の前世は神の道に深い因縁がある者であるから、我は影身に添って守護する。今まで教えたことを、世のため人のために施し行うのだ。ただし、それなりの人でなければ、みだりに山で見聞きしたことを明かしてはならない。また、我が実名も人に明かさず、世に云うままに天狗と称し、岩間山に住む十三天狗の内で、名は杉山僧正と云うのだ。」 #0013【「生まれ変わり」の事実(1)】>> #0014【「生まれ変わり」の事実(2)】>>

 そして寅吉は家に帰ったのですが、特に家が一向宗だったこともあり(寅吉は仏教嫌いで、中でも念仏宗派を最も嫌っていた)、両親や兄弟とソリが合わず、家を出て様々な人の所で厄介になっていたところ、文政三年十月一日、遂に平田先生と対面することになったのでした。その初対面の時のことを、平田先生は次のように記されています。

「寅吉は私の顔をじっと見て微笑んでいたのだが、思い立ったように「あなたは神様です」と何度も云った。私はその奇妙な様子に何も答えなかったが、「あなたは神の道を信じて学んでおられます」と云うのだ。
 山崎美成が傍らから、「こちらは平田先生といって、神道の古学を教授される方である」と云ったところ、寅吉は笑って「その通りだと思いました」と云った。私は驚いて、「なぜそれが判るのか。神の道を学ぶことは善いことか悪いことか」と尋ねたところ、「何となく神を信じておられるお方だと心に浮かんだので、そのように申し上げました。神の道ほど尊い道はなく、これを信じることはとても善いことです」と答えた。これが、私がこの童子に驚かされた始めである。」

 寅吉が平田先生の家に住み込むようになったのはその翌月で、『仙境異聞』はその産物として著されたのですが、その間も寅吉は再三にわたって岩間山の幽境に出入りし、あるいは平田先生の杉山僧正に呈する書状を携行し、あるいは杉山僧正からの伝言をもたらすなど、顕幽の架け橋的な役目を果たしたのでした。また、この当代随一の高名な大学者の私宅に住み込んでも少しも遠慮することなく、奔放自在な我がまま振りを発揮し、平田先生を始め門人たちを手こずらせたようですが、先生はこの童子を限りなく慈愛して、その天性を伸張させることに努められたことがうかがわれます。
 
 それにしても、平田先生に対して「あなたは神様です」と云った寅吉は、まさに慧眼(けいがん)を備えた「仙童」で、実は平田先生は、ある使命をもって神仙界から地上に生を享けた謫仙(たくせん)であったことが宮地水位先生によって伝えられています。したがって、寅吉と平田先生の出会いも偶然ではなく、幽界からの神量(かむはかり)であったと拝察されます。 #0110【大屋毘古神のカムハカリ】>> #0134【大国主神に神習う】>>

 わたしたちの心は確かに存在しているにも関わらず、目で見ることができず、手で触れることもできませんが、それは、心は魂(生命)より出ずるもので、その魂(生命)は幽界に属するためとされています。 #0039【魂と心の関係(1)】>> ならば、その幽界の実相を窺い知ることによって、魂(生命)のことや、「我はなぜ生まれてきたのか」「生存中に何をなすべきか」「死すれば何の境に入るか」というような人生最大の疑問についても自ずと明らかになってくるはずです。

 また、「神武天皇の御世に山人界と呼ばれる幽界が創設され、太古の日本人の多くがこの界に編入された」ということが事実であるなら、わたしたち日本人の偉大な祖先による高度な霊的文明をも窺い知ることができるということになります。
 さて次回より、テーマごとに編集して解説を加えながら、この『仙境異聞』についての考究を行って参りたいと思います。

清風道人

カテゴリ:『仙境異聞』の研究
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