日本古学アカデミー

#0013 2010.2.4
「生まれ変わり」の事実(1)

 


 人の霊魂には、はじめて神霊の一微分子を付与されて生まれてくるものもあれば、往古より歴代のあいだに、すでに人間として生まれた霊魂が、寿命を終えて一旦幽界へ帰り、さらに再生してまた人間界へ生まれてくるものが存在することが伝えられています。 #0009【生命が宿る瞬間】>>

 平田篤胤先生の『勝五郎再生記聞』には、文政五年(1822年)、武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都中野区内)に住んでいた当時八才の勝五郎という少年が、前世でのできごとや亡くなった時のこと、また死後に出会った白髪の老人のことや、この家に生まれることになった経緯などを語ったことが記されています。勝五郎から彼の前世の話を聞いた祖母は、どうしても前世で住んでいた村に行きたいとせがまれ、半信半疑ながら彼の手を引いてその村へ行ってみたところ、そこには勝五郎が語ったとおりの風景があり、前世での彼の両親が実際に暮らしていたのでした。
 以下、伴信友先生(平田先生の友人)に勝五郎が語った内容をいくつか挙げてみたいと思います。

「おらはもと程窪(現在の東京都日野市程久保)の久兵衛の子で、母の名はおしづといった。おらが小さい時に久兵衛は死んで、その後に半四郎という人が来て父となり、可愛がって養ってくれたが、おらは六才の時に死んだ。その後、この家の母の腹に入って生まれた。」

「前世のことは四才くらいまではよく覚えていたけれど、だんだん忘れてしまった。死ぬ病気ではなかったけれど、薬がなかったので死んでしまった。息が止まった時は何の苦しみもなかったが、その後しばらく苦しかった。でもそれ以後は苦しいことはなかった。」

「体を棺桶の中に強く押しつけると、桶から飛び出して傍(かたわ)らにころがってしまい、山へ葬りに行く時は、白く覆われた厨子(ずし)の上に乗って行った。桶を穴へ落とした時、大きな音がして心に響いたことを今でもよく覚えている。」

「僧侶たちが経を誦(よ)んだけれども何にもならず、彼らは銭金をたぶらかし取ろうとするだけで、何の益もないので憎らしく思われた。」

「家に帰って机の上にいたが、人にものをいっても聞こえないようだった。その時、白髪が長く打ち垂(た)れて、黒い着物を着た翁(おきな)に、「こっちへ」と誘われるままに従って、どことも知らない段々に高くなった綺麗な原っぱに行って遊んだ。花がたくさん咲いているところで遊んだ時、その枝を折ろうとしたら、小さな烏(からす)が出てきて、いたく威(おど)されたことは、今でも恐ろしく覚えている。」

「また遊び歩いていると、家で親たちがものをいっているのが聞こえ、経を誦む声も聞こえたけれど、おらは前にもいったように僧侶は憎らしく思われるだけだった。供えられていた食物を食べることはできなかったけれど、その中で温かいものは湯気の香りが美味いと思ったのを覚えている。七月に家へ帰った時は、団子などが供えられていた。」

「こうして遊んで過ごしていたところ、例の翁と家の向かいの路地を通った時、翁がこの家を指して、「あれなる家に入って生まれよ」といった。教えられるままに翁と別れて、庭の柿の木の下で三日ほどようすをうかがっていたのだが、窓の穴から家の中に入り、竃(かまど)のそばにまた三日くらいいた時に、母がどこか遠いところへ別れて行くことを父と話していた。」

「その後、母の腹に入ったように思うが、よく覚えていない。腹の中では、母が苦しいだろうと思う時は、側(わき)へよけたりしたことがあったのを覚えている。」

「生まれる時は何の苦しみもなかった。この他、どんなことも四つか五つくらいまではよく覚えていたけれども、だんだん忘れてしまった。」

 また、勝五郎が死や幽霊などをまったく恐れないことについて質問すると、次のように答えました。

「おらが死んだと人にいわれて、はじめて死んだことに気がついた。死体も見たけれど、その時自分では死んだと思わなかった。死んだ時も、人が思うほど苦しくはなかった。死後の世界は、腹もいっぱいで暑くも寒くもなく、夜でもそれほど暗闇ではなく、歩きに歩いても疲れることはないし、翁のもとにいれば何も恐ろしいことはなかった。亡くなってから六年目に生まれたと人はいうけれど、あちらではほんのわずかな間だった。」

 このことについては当時の役所の記録にも、中野村の勝五郎の前世が程窪村の久兵衛の子、藤蔵であり、藤蔵が六才の時に天然痘で病死し、その六年後に勝五郎として生まれたことが記されています。

清風道人

カテゴリ:玄学の基本
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