日本古学アカデミー

#00119 2011.8.4
万国を開闢せし皇国の神々

 


 このあたりのこと #0114【少名彦那神の出現】>> ~ #0118【大国主神の幸魂奇魂】>> について補足する意味で、再度平田篤胤先生の論を掲載しておきたいと思います。

 少名彦那神が始め伊佐々(いささ)の小浜に依(よ)り来ませることは、皇産霊大神(みむすびのおおかみ)の御手俣より漏(くき)落ちまして外国(そとつくに)へ放れ給ひしが依り来ませるにて、粟の茎に弾かれて常世国(とこよのくに)に渡り給ふとあるは、また外国へ往き坐(ま)せるが、この神と入れ替れる如く、か(大国主神)の和魂(にぎみたま)大物主神(おおものぬしのかみ)寄り来ませるは、これまた早くより外国へ渡りてませしが還り来ませるにて、これは共に外国々を開闢(かいびゃく)経営せんとのことなるが、歌に「さひづるや常世からの八十国(やそくに)は少毘古那(すくなびこな)ぞ造らせりけむ」と詠まれ、記伝にもその説が記されたれど、この神にのみ非ず、実には伊邪那岐神、伊邪那美神、また須佐之男神、及び大国主神も渡りまして開闢し給ひてぞ有りける。

 皇孫命(すめみまのみこと)に国譲りまして後に往きませるはその和魂ならで、(出雲)大社に鎮まりませる全体の御魂(みたま)ぞ往きましける。それは常陸国(ひたちのくに)帰り来ませる時の御託に「大奈母智神(おおなもちのかみ)」と詔(のたま)へるは御本霊の御名なるを以てこれを知れり。(ある人この説を聞きて、「しからば神代の幽顕分かれし時代より斉衡三年(856年)までの間は、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)この国に御まさねば、その霊異は有るまじき道理なるに、孝昭天皇、祟神天皇、垂仁天皇などの御世に、その全体の御名にて著(いちじる)しき霊異の御託など有りしはいかに」と云へるに、答へけらく、これは師説(本居宣長先師の説)に、神の御霊(みたま)がいくつにも分かれて同じように霊異を現すことを、一つの大いなる火をいく所にも同じように移し灯すに、元の火は減ることなく、移し分けたる火も同じように燃ゆることに例えられたる如くなれば、この国にその御本体はませど、その分魂(わけみたま)が外国に渡りて経営など為し給はむも何か疑はむ。しかれば斉衡三年に帰り来ませりとは云へど、なおその分魂のまさざる国は無しと知るべし。 #0024【幽顕分界という歴史的事実】>> #0035【神代第一期補遺(1)】>> )

 かくて漢土(中国)天竺(インド)を始め、その余の国々のことを記せる書等に、その事跡を知るべき伝有りやと考ふるに、間近き故にや、漢土には殊(こと)にその事跡正しく伝はり、かの太昊氏(たいこうし)とも伏義氏(ふっきし)とも、太真東王父(たいしんとうおうふ)とも、扶桑大帝(ふそうたいてい)とも云へるは大国主神にますが、その太昊氏に三才の本義を教へ、神農氏(しんのうし)に医薬の大法を教へ、黄帝、老子に養神金丹の真術を授けし泰乙小子(たいいつしょうし)、泰乙元君(たいいつげんくん)などと称せる神真(しんしん)は少名彦那神にぞありける。(またその泰乙小子を東海王清華小童君(とうかいおうせいかしょうどうくん)とも、東華大神青童君(とうかたいしんせいどうくん)、青真小童君(せいしんしょうどうくん)とも云ひて、その形嬰孩(えいがい、2、3歳の幼児)の如き神なる故に、神界にてかく名付くる由(よし)見え、扶桑国の方諸(ほうしょ)といふ山に住む由なり。扶桑国とは皇国(日本国)の事なること『扶桑国考』に記せる如くなるを、その扶桑国にまして幽界の大帝たる神は大国主神なり。) #0030【天地万物造化のはじまり】>>

 また、天竺(インド)の籍には大国主神が渡りませる事跡は見えねど、その幽冥(ゆうめい)を知り給ふことの訛伝(かでん、事実から変質した伝)はいと多く、少名彦那神はかの国を開闢し給へりと聞こへて、その事跡いと詳(つまび)らかに伝はりて、梵天子(ぼんてんし)と称し、童子天(どうしてん)とも申して、いわゆる梵志(ぼんし)の遠祖はその梵天子の口より生(あ)れ出たる由にて、その伝ふる学の高尚にして玄学の旨(むね)に叶へること、かの玄奘(げんじょう)が『西遊記』に梵志の学風を記載して、「博(ひろ)く精微を究(きわ)めて玄奥を貫窮(かんきゅう)し、人に大義を示して導くに微言を以てし、古(いにしえ)に博(ひろ)く、奥に居りて物外に浮沈し、事表を逍遥(しょうよう)して寵辱(ちょうじょく)に驚かず、知道を貴びて匱財(きざい、貧乏)を恥じず」とあるが、少名彦那神の神業に符(かな)へるを思ふべし。

 かくて漢土天竺共に我が皇神たちの開闢し給へる国なるが故に、漢土の玄学、天竺の梵学共にその根元は皆その神たちより出たり。これを以て玄学は更なり、梵学にも我が古説に伝へ漏らせる正義の採用すべきことは無きにしも非ず。(しかるに玄道には、かの「周」と云ひし世より狭意(さかしら)ぶる一見を捏出(ねつしゅつ)して儒道と号(なづ)くる道を建立せる厄あり、梵道にはその古説を盗襲して仏道と号(なづ)くる道を偽作せる厄あり、これを以て両国共に既にその古説は亡(ほろ)びむとするに至れり。)この二国の古道が我が神真に出たる由来を知り得むには、それに準(なぞら)へてその余の国々の開闢は更なり、その道の根元も我が皇神たちの伝説より出たる由縁(ゆえん)をも弁(わきま)ふべし。

 そもそも少名彦那神のことは玄学の古書どもに、「泰乙小子は大同の制を執(と)りて泰鴻(たいこう)の気を調(ととの)へ、神明の位を正す(神々の位階を改定する)者なり」とも、「青真小童君(せいしんしょうどうくん)は嬰孩(えいがい、2、3歳の幼児)の形貌なり、故に小童と号す。その器たるや環朗幽鑑(かんろうゆうかん)にて才また真俊(しんしゅん)たり。扶広(ふこう)に館し(住み)、玄圃(げんぽ)に遊びて仙職(神々や仙人)を治む」など有るにて、その神業が万国に普(あまね)くことを知るべし。(玄圃(げんぽ)とは、いわゆる崑崙山(こんろんざん)なり。扶広(ふこう)はまた方諸(ほうしょ)とも云ひて扶桑国内(日本国内)にある山の名なるが、いずれの山を云ふか詳(つまび)らかならず。)

 確かに、世界各国の古伝説を比較研究すると、日本を開拓啓蒙した神々が、その後、西へ西へと世界各地の人類世界を開闢していったように見えます。 #0092【世界太古伝実話(1) -神代という時代-】>> ~ #0100【世界太古伝実話(9) -道教に見える日本の神々-】>>
 さらに「不老不死の道」である古代日本の尸解(しか)法を追っていくと、まずその一部が古代中国で黄帝や老子に授けられて「養神金丹の真術」となり、さらにそれが訛伝してエジプトの遺体保存や西洋のカバラ、錬金術になっていったことがうかがわれます。 #0051【尸解の神術】>> #0109【須佐之男命の安心】>> 

清風道人

カテゴリ:日本の神伝
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