日本古学アカデミー

#00860 2023.10.1
天地組織之原理(101) -大国主神の御系統-

 


「兄(みあに)、八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)云々。この神、刺国(さしくに)大神の女(みむすめ)、名は刺国若比売に娶(みあ)ひて生みませる子(みこ)、大国主神。亦の名(みな)は大穴牟遅神(おおなむちのかみ)と謂(まお)し、亦の名は葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)と謂し、亦の名は八千矛神(やちほこのかみ)と謂し、亦の名は宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)と謂す。併せて五つの名あり。」

 こゝに挙げたる明文は『古事記』の本伝を中略して講究の目的を示したるものなるが、大国主神は須佐之男命の御神業を継がせられ、神代第四期大地造化の大主権を掌り給ふ大神なるを、この神の御系統のことに就ては種々の伝ありて、未だ何れが是、何れが非と云ふことの知られざる程のことなれば、まず御系統にかゝることより論究すべし。

 前に掲げたる明文に「云々」と中略したる所の『古事記』本伝の全文は、「兄、八島士奴美神、大山津見神の女、名は木花知流比売(このはなちるひめ)に娶ひて生みませる子、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)。この神、淤迦美神(おかみのかみ)の女、名は日河比売(ひかわひめ)に娶ひて生みませる子、深淵之水夜礼花神(ふかふちのみずやれはなのかみ)。この神、天之都度閇知泥神(あめのつどへちねのかみ)に娶ひて生みませる子、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)。この神、布怒豆奴神(ふぬづぬのかみ)の女、名は布帝耳神(ふてみみのかみ)に娶ひて生みませる子、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」とあり。

 この伝に由る時は、大国主神は八島士奴美神の六世の神孫にして、須佐之男命の七世の神孫の如く聞こゆるなり。又『日本書紀』の正書には須佐之男命と櫛名田比売命の御間の直(じか)の御子と伝へられたり。又一書(あるふみ)には八島士奴美神の五世の神孫、或は六世の神孫ともあり。『古語拾遺』には『書紀』の正書と同じく須佐之男命の御子と伝へたり。
 然るに平田先哲の成文には『神祇譜』の伝を採りて須佐之男意命の四世の神孫とし、則ち天之冬衣神より前の『古事記』の伝を省かれたり。

 かくの如く大国主神の御系統は伝々皆異なるものなれば何れを是として可ならんと考ふるに、これは全く須佐之男命の三世の神孫に当り、則ち八島士奴美神の御子と窺はるゝなり。
 如何となれば、神代の六世の孫或は七世の孫と云ふは、後世の何世と云ふ如き代数の経年と違ひ、数千歳とも数万歳とも云ふべきものにて、皇孫命降臨の後と雖(いえど)も神武天皇の御代に至るまで御三代の間は未だ幽顕相近き気運なるを以て、凡そ二千五百年を経る程のことにて、後世にても神仙の年数は量り無き程のものなれば、神代の六世とあるは特に長きことなり。

 神武天皇以後に至りて頓(とみ)に年寿の縮みたるは、全く造化大気運の変遷に由るものなれば、神代第五期の末に至り、その然る所以を講述すべければ、こゝに神代の何世と云ふは特に長き年数なることを知らしめんが為に一言その比較を申し置くなり。
 皇孫命降臨御三代の間、尚かくの如し、況(いわん)や第三期より第四期に至るの間は特に太古のことなれば、須佐之男命より大国主神まで七世も経つべきに非ず。故に平田先哲はその中を採り、『神祇譜』の伝によりて四世の神孫と云ふを正伝なりとして成文とせられたり。

 然れども記紀共に数伝あるに皆五世の神孫、六世の神孫とあるを思ふに、『書紀』撰集の時には必ず家々に伝へたる古伝の中にも、『古事記』の如く「この神、何の神に娶ひまして生みませる子、某神」などありしを、その神名を省きて五世の神孫或は六世の神孫と略して一書の伝に挙げられたるならんと思はるゝなり。故に深く神典前後の明文に照らし道理を推して考ふるに、これは全く『古事記』を以て正伝とすべき事と窺はるゝなり。

 然れども須佐之男命の七世の神孫と云ふに非ず。『古事記』の伝によれば、大国主神は全く須佐之男命の三代の神孫に当らせらるゝなり。如何となれば、この所の八島士奴美神の御系統は暫く措き、この次大国主神より以下の御系統を合せて考ふるに、『古事記』の明文にては「故(かれ)、この大国主神、胸形(むなかた)の奥津宮(おくつみや)に坐す多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)に娶ひて生みませる子、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)、次に妹高比売命(いもたかひめのかみ)、亦の名は下光(したてる)比売命。この阿遅鉏高日子根神は今、迦毛(かも)の大御神と謂(まお)す。大国主神、亦、神屋楯(かみやたて)比売命に娶ひて生みませる子、事代主神。亦、八島牟遅能神(やしまむぢのかみ)の女、鳥耳神(とりみみのかみ)に娶ひて生みませる子、鳥鳴海神(とりなるみのかみ)。この神、日名照額田毘道男(ひなてりぬかたびちおの)(神の女)、伊許知邇神(いこちにのかみ)に娶ひて生みませる子、国忍富神(くにおしとみのかみ)。この神、葦那陀神(あしなだのかみ)、亦の名は八河江比売(やかわえひめ)に娶ひて生みませる子、速甕之多気佐波夜遅奴美神(はやみかのたけさはやぢぬみのかみ)。この神、天之甕主神(あめのみかぬしのかみ)の女、前玉(さきたま)比売に娶ひて生みませる子、甕主日子神(みかぬしひこのかみ)。この神、淤加美神(おかみのかみ)の女、比那良志(ひならし)毘売に娶ひて生みませる子、多比理岐志麻流美神(たひりきしまるみのかみ)。この神、比々羅木之其花麻豆美神(ひひらぎのそのはなまづみの神)の女、活玉前玉(いくたまさきたま)比売神に娶ひて生みませる子、美呂浪神(みろなみのかみ)。この神、敷山主神の女、青沼馬沼押(あおぬうまぬおし)比売に娶ひて生みませる子、布忍富鳥鳴海神(ぬのおしとみとりなるみのかみ)。この神、若昼女神(わかひるめのかみ)に娶ひて生みませる子、天日腹大科度美神(あめのひはらおおしなとみのかみ)。この神、天狭霧神(あめのさぎりのかみ)の女、遠津待根神(とおつまちねのかみ)に娶ひて生みませる子、遠津山岬多良斯神(とおつやまさきたらしのかみ)」とありて、総て大国主神の御系統の神十一世にして、この中、阿遅鉏高日子根神と事代主神と鳥鳴海神の三神は皆大国主神の御子なれば、十一世とあるは全く九世と云ふべき御系統なり。

 然るに『古事記』の伝に、「右の件(くだり)、八島士奴美神より以下(しも)、遠津山岬帯神(とおつやまさきたらしのかみ)以前(まで)十七世(とおまりななよ)の神と称(まお)す」とあるは全く十五世とあるべき理(ことわり)にて、この世数に相違あることは既に先哲も論じ置かれたることなるが、この世記はたとへ十五世にもせよ十七世にもせよこの伝を正伝なりとする時は、皇孫命降臨の時には事代主神も未だ御若君とも申すべき時なれば、その御弟神たる鳥鳴海神は尚御若く坐すべき理なれば、鳥鳴海神より以下七世の神は全く皇孫命降臨後の御世系に当れば、神武天皇まで皇孫命の御系統と同じく御三代とするも尚四代は神武天皇より後、懿徳(いとく)天皇の御代に及ぶ理にて、如何に考ふるもこの所にこれだけの御代数の経つべき理に非ざるが故に、平田先哲はこの所の御世系は信じ難しとして悉(ことごと)くこれを除きて、鳥鳴海神以下は成文には挙げられざりしなり。

 然れども『古事記』の明文にかくまで明瞭なる伝のあるを、全く除き去られたるは如何あらんと考へらるゝ旨もありて尚講究するに、まず大国主神には庶兄弟(ままあにおと)八十神(やそがみ)坐すとの伝なれば、この八十神は必ず八十柱と云ふにも非ざるべけれども、数多き庶兄弟の神坐すこと明らかなり。
 かくの如く多くの異母兄弟坐しますを以て考ふる時は、その御父たる神には必ず多くの后神坐すべき理なるを、天冬衣神には多くの后神坐したることも更に聞こえず、然れば大国主神を天冬衣神の御子としては八十神と云ふ多くの庶兄弟坐すこと聞こえ難し。

 それのみならず大国主神には御子神百八十一神も坐すとの伝ありて、特に多くの御子神坐すことなるに、『古事記』の伝にては阿遅鉏高日子根神と高比売神と事代主神と鳥鳴海神と、八上比売の生み坐せる御井神(みいのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)等の外にはあまり多くの伝へも無く、その中にも阿遅鉏高日子根神と事代主神は全く御同神の御別名と聞こゆれば、如何に簡略なる伝にもせよ百八十一神も坐すべき御子神等の御系統も更に知られ難きことなるは如何なることならんとよく考ふれば、これは全く『古事記』の伝にある八島士奴美神と云ふより次々の御系統にある「この神、何の神に娶ひて生みませる子、某神」とある「この神」の字は全く次々へ送るの文に非ず、本(もと)の八島士奴美神に返すべき文にて、「この神」と云ふ下に「又」と云ふ字を加へて見ればよく聞こゆるなり。

 総て『古事記』の文例は同神の他の比売神に娶ひ坐す時は「亦云々」と伝へられたる例なれども、八島士奴美神と大国主神は特に多くの比売神に娶ひ坐したる神なるが故に、五柱或は十柱と云ふ比売神に娶ひ坐すに、「亦云々、亦云々」と伝ふれば文の体を失するが故に、記紀撰集以前より早く「亦」と云ふべきを、一神にして三柱以上の比売神に娶ひ坐せるは「亦」の字を用ひず、「この神」の字を以て「亦」の字に換へ伝へられたるものにて、八島士奴美神の御系統の次々にある「この神」は皆八島士奴美神の娶ひ坐したる比売神のみにて、大国主神の御母・刺国若比売神は八島士奴美神の五度目に娶ひ坐したる神に坐すべきなり。

 然れば天冬衣神は八島士奴美神の四度目に娶ひ坐したる比売神の生ませる御子なれば、大国主神の異母の御兄神にして所謂(いわゆる)庶兄弟に坐す理なり。この理を以て次の大国主神以下の御系統を考ふるに、これ又同じく十世ばかりも次に数へ来りたる「この神、云々」と云ふ「この神」の字は全く本の大国主神に返すべき理にて、「この神、又」と云ふ意なれば、その多くの比売神等は正后には非ざるも皆大国主神一柱の后神のみなり。

 かく考へ渡して見れば大国主神に庶兄弟の神等坐すべき理も明らかにして、又御子神の多く坐すこともよく窺はれ、『古事記』前後の明文に照らしてよく聞こゆる事となるによりて、余が一家講究にては明文と道理に訴へて、『古事記』両所にある八島士奴美神の御系統と次の大国主神の御系統の「この神、云々」とある「この神」の字は次々に送るべき文に非ず、本の神に帰るべき文なりとするなり。

 然るを記紀撰集の時には「この神」の字を次へ送る文として数へられたるにより、終に前後にて十七世神と数へられ、『日本書紀』にも五世六世と数へ伝へられたるものと窺はるゝなり。
 かくの如く道理を推して考ふれば『古事記』の伝こそ正伝にして、大国主神は全く八島士奴美神の五度目に娶ひ坐したる后神・刺国若比売神の御子なれば、須佐之男命には承祖の御孫神に当り給ふなり。故によく『古事記』本伝の明文に照らしてこの理を講究あるべし。

清風道人

カテゴリ:天地組織之原理
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