日本古学アカデミー

#00790 2022.8.7
天地組織之原理(31) -八島-

 


「生みたまひし子(みこ)は淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけじま)。次に伊予之二名(ふたのなの)島。この島は身一つにして面(おも)四つあり、面毎に名あり。故(かれ)、伊予国を愛比売(えひめ)と謂ひ、讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)と謂ひ、粟国(あわのくに)を大宣都比売(おおげつひめ)と謂ひ、土佐国を建依別(たけよりわけ)と謂ふ。次に隠岐之三子島(おきのみつごのしま)を生みたまひき。亦の名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり、面毎に名あり。故、筑紫国を白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊国(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥国(ひのくに)を建日向日豊久士比泥別(たてひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曾国(くまそのくに)を建日別と謂ふ。次に伊伎島(いきのしま)を生みたまひき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばしら)と謂ふ。次に津島を生みたまひき。亦の名は天之狭手依比売(あめのさてよりひめ)と謂ふ。次に佐度島を生みたまひき。次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)を生みたまひき。亦の名は天御虚空(あまつみそら)豊秋津根別と謂ふ。故、この八島を先に生みしによりて大八島国(おおやしまくに)と謂ふ。」

 さて前に淡道之穂之狭別島のことは講述したれば、次に「伊予之二名島」より講述すべし。 #0783【天地組織之原理(24) -国土生産-】>>
 この国名を解するには、まず先哲の説に一家説を加へて解すべし。「伊予国」の名は『古事記』によれば四国の大名より起こりて、又その名を今の一箇国の名にも用ひ、又その伊予国に伊予郡と云ふ郡もありて三つ重なりたるものなるが、総て日本古代の国名は大名より一国の名となり、一国の名より一郡の名となるが如きはあまり無き例にて、一国の国名は一地方の地名より起こりたるもの多きことは、日本各国の国名の起こりを委しく考へたる人はその然る所以(ゆえん)を知らるゝことならん。

 その例に由れば、「伊予」の名は今の伊予郡と云ふ一地方の名より起こりたるものゝ如し。その名は何れの時代に名付けたりと云ふことは未だ考へ得ざれども、国土生産の時の名に非ずして伊予郡の地名より唱へ始めたるは、他の国名の例に由りて知らるゝことなり。故にこの名は後の名にして、太古国生みの時の名には非ずとすべし。然れば「二名島」と云ふこそ全く太古の真伝と窺はるゝなり。
 その「二名」の「名」と云ふは、この島に名が二つありしより云へるにて、先哲は今の日本の四国とのみ思はれたるが故に、二名にては聞こえ難きを以て二並びと云ふことならんとも云はれたれども、『古事記』のみならず『日本書紀』に四つまであるに皆「二名島」とあれば、疑ひも無く名の二つありし島なること明らかなり。

 これに因りてよく考ふれば、これは真の古伝は「愛比売」と「建依別」の二つのみ太古によりの名にして、讃岐と粟に当てられたる「飯依比古」と「大宣都比売」の二つの名は日本の四国とこの国生みの時生み給へる二名島とを、仮に配当したる時より名の数の足らぬが故に加へられたるものならんと考へらるゝなり。
 如何となれば、この国生みの時は未だ米・粟の類は無き時にて、米・粟の類の出来たる始めは神代第三期に至り保食神(うけもちのかみ)の時初めて元種の出来たるものなれば、この第一期国生みの時に米・粟の類を以て名付くべきに非ざれば、後世より加へたるものなることは多言を用ひずして明らかなり。
 殊に「大宣都比売」と云ふは保食神の又の名なるを、粟国と云ふより又の名に保食神の御名を用ひ、この粟国に対して讃岐国に「飯依比古」と云ふ名を付けたるものと思はるゝなり。

 国名は総て男性には「別」とある例なるに、この国のみ「比古」とあるも疑はしく、特に飯・粟の類を以て国生みの時に名付け給ふべきに非ざるは弁解を俟ちてこゝに知るまでも無き程のことなり。
 「讃岐」と云ふは先哲も竿調(さおつき)の国と云ふ意ならんかとのことにて、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の孫この国に住みて毎年矛竿を調(みつ)ぎ奉りしに由りて起こりし名ならんと云ひ置かれたる通り、太古よりの名に非ざること明らかなり。土佐国には土佐郡土佐郷の名あれば、例の一地方の名より起こりたるものにて後なること疑ひ無し。

 然る時は、太古よりの真伝とするは「愛比売」と「建依別」の二つより外無きなり。これ記紀共に同じ伝への五つもあるに皆「二名島」とある所以にして、古事を存せんが為に日本の四国に合せて名付けられたるものと聞こゆ。これは何れの御世の事とも未だ考へ得ざれども、昔時に二名にては四国に合ざる故、「面四つあり」としたるものゝ如し。然れども幸ひに記紀に「二名島」とあるを以てこの調べも出来ることにて、この二名の島を四名の島と改めざりしは神慮にもあるべし。
 その他の国名は皆古事を存するまでに仮に日本内地に配当したるものなるが故に、その大小の比較等も更に道理に於て聞こえざるものなり。

 如何となれば、今の日本の八国を比較して考ふべし。隠岐国や佐渡国や対馬国と彼の陸州より長州に至るまでの大陸所謂(いわゆる)秋津島なりと先哲の云はれたる国と同列にして、同じ大八島の内とすればその大小、提灯と鐘、富士山と築山(つきやま)を並べた程不均衡のものに非ずや。
 それのみならず後の六島の内には今に所在も知れざる島等もあるは如何にも疑はしきに由りて、深く考ふれば全く太古の名と後の名と附会したるものなること、この次々の講述を聞かれなら必ず自得せらるゝに至るべし。

 さて次に「隠岐之三子島を生みたまひき。亦の名は天之忍許呂別」とあり。この名は今の日本の隠岐国の名にして、島前・島後と四つの島ありて、島後は大にして一つ、島前は小島三つを合せて島前と云ふ。これを以て隠岐の三つ子の島と云へるなり。何れの時代に名付けたること知るべからざれども、これも後の名なるべし。
 「亦の名は天之忍許呂別」と云ふは太古の真伝なれども、後に隠岐国にこれを配当したるものなるが故に所在の順序も乱るゝに至りたるものゝ如し。記紀を合せ見てこの島の順序異なるを考ふべし。

 次に「筑紫島を生みたまひき」。さてこの筑紫と云ふ名も今の九州の大名にて、その名を又一国に名付けたるものゝ如く聞こゆれども、これも全く太古の伝に非ず。その故は先哲も云はれたる如く『筑後風土記』に、邪神の為に往来の人多く殺されたるより「命を盡しの神」と云ふ古事より名付けたるを、後に文字を改めたるものと聞こゆればこれも後の名なり。
 その外「豊国」と云ふは作物の美なるよりの名と聞こえ、「肥国」は元「火の国」にて、崇神天皇の御言に「火国と名(なづけ)るべし」とあれば、この御世より名付け給へること明らかなり。「日向国」は『景行天皇紀』十七年三月に「その国、日向なり」とあれば、この御世より名付け給へること又明らかなり。「熊襲国」は元「襲(そ)」と云ふ地名より起こりたる事と聞こゆ。先哲の伝に委しければ就て見るべし。
 かくの如く何れも後の名なればこれを除きて、真の古伝とすべきは「白日別」「豊日別」「建日向日豊久士比泥別」「建日別」の亦の名のみとなるなり。

 次に「伊伎島」。この名も後の名にして、先哲の説には伊伎は斎忌と通ふ義の名なれば古くこの島にて神祭のことありしよりの名ならんかと云はれ、又韓国(からくに)に渡るにこの島に舟を止むるより息ひの島かとも云はれたり。然ればこれも「天比登都柱」と云ふ太古よりの名をこの島に配当したるなり。
 次に「津島を生みたまひき」。この名も韓国の往還の舟の泊(はつ)る津なるが故ならんと先哲の説あれば、神功皇后より後に名付け給へるなれば、これも又この島に「天之狭手依比売」と云ふを配当したるなり。

 次に「佐度島を生みたまひき」。名義は先哲の説にこの島に舟を入るゝ水門の狭きが故に狭門(さど)なるべしとあり。然ることなるべければこれも古伝とすべきは亦の名なれども、惜しいかな『古事記』にこの島に配当したる亦の名を伝へざるは古くより失ひたるものか、『旧事本紀』に聊(いささ)か思ひよることもあれども、今世に伝はる『旧事本紀』の偽書なることは先哲もよく弁じ置かれたれども、古書なるが故に他書に無き古伝もあれども、この国名に就ては採るべき程のことに非ず。その他にこれを補ふべき書の伝はらざるは残念の至りと云ふべし。

 次に「大倭豊秋津島を生みたまひき」。この名の「倭」と云ふはもと大和一国の地名なるを、神武天皇より後、御世々々の大宮所を多くこの国に敷き給へるより終に日本の大名の如くなりしにて、太古の名には非ざるなり。
 又「秋津島」と云ふは『神武天皇紀』に、「これに由りて始めて秋津洲(あきつしま)の号(な)有り」とありて、神武天皇の大詔より起こりて終に日本の大名となりしものにて、これも太古よりの名に非ざれば国生みの時の八国の中に入るべき名に非ず。然るにこれを八つの中に入れたるに由りて、今これを除けば八国は七国となる。今一国は何れならんと考ふるに、これは越洲(こしのしま)なり。

 その故は、『日本書紀』には越洲は正書にも挙げられたるのみならず、又の伝にも三つまでも越洲を八国の中に加へられたれば、『古事記』にも必ずあるべき理なるに、『古事記』には省かれたるは秋津島を加へられたるが為のみに非ず、越国は今内国大陸の内にあるによりて別に生ませられたるものならんと考へられたるものゝ如し。
 越国のことは井上頼国氏の『越洲考』に論じられたる通り今の北海道のことにて、内地の三越は越国に通ふ道路なるが故に越路と云ひしより終に越国と云ふに至りたりとの説、動くべからざる論と思はるゝなり。

 然れどもその越国と云ふも太古の名とも聞こえ難く、他の例を以て考ふる時はこれにも何別とか亦の名の配当あるべきを今伝はらざるは、『日本書紀』には亦の名を一つも挙げられず、只『古事記』にのみ残りたるものにて、『旧事本紀』にあるも『古事記』より採りたる程のことなるが故に、『古事記』にこの国を省かれたるにより亦の名も共に伝はらぬ事となりしは残念の至りなり。
 実は『日本書紀』選集の時に集められたる家々の伝の中には皆亦の名あるべき理なるに、彼の紀は専ら漢風に学びたるものなるが故に、国土には如何にも似合はざる名として亦の名を省かれたことならんと疑はるゝなり。今の世に『古事記』無かりせば太古よりの真伝たる八国六島の国名は全く後世に伝はらざるべきに、天武天皇の大御心の畏(かしこ)きかも。
 さてこれまでにて大八洲国生みの御神業は一先ず済ませられしが故に「故、この八島を先に生みしによりて大八島国と謂ふ」と伝へたるなり。

清風道人

カテゴリ:天地組織之原理
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