日本古学アカデミー

#00751 2021.12.16
奇蹟の書(26) -幽霊写真の実例-

 


<幽霊写真の元祖>
 世界で最初の幽霊写真を出した人は、一八六九年の頃ニューヨークのマムラーと云ふ霊媒質の写真師であった。大に流行して高評になると詐欺師だとて告発されたが、公判廷で判事の用意した写真機に軽く手を当てただけで、現像すると模糊として不明の人間の半身が現れたので、真正の幽霊写真だと判決されて面目を施した。

(フランスにビジュエと云ふ著名な一人の幽霊写真師が現れて、詐欺取材として告発され、公判でその奸策を自白したところ、「彼の撮影した幽霊写真に現れたものは真実だ」と云ふて証言をする多くの人が公判廷へ詰め寄せた。然るに被告本人が奸策であると自白したので罪に伏した。
 この事件は我国の反霊派が好んで引例し、幽霊写真の不正を宣伝する唯一の口実となって居るが、事件の真相はフランスの反霊家がビジュエを買収して刑に服さしめたもので、後にそのことが発表され、ビジュエは社会から憎まれた。)

<パラデュク博士の実験>
 パリの医学博士パラデュクは、長男アンドレーと共に熱心な心霊研究家であったが、長男が病死をしたとき父は悲嘆限りなく、死後六時間を経て長男の亡霊と感応を現したので大に気強くなり、九時間目に父は棺を記念撮影に付したが、その出来上がったものを見ると、棺から白霧状の波形をしたものが勢ひよく八方へ輝き出してゐた。
 而してその霧状物は棺に近づく人々の体に射入して、恰(あたか)も磁力があって人々を引きつけたやうに眺められた。この発射物が父を電撃的に頭から足先までを感ぜしめ、一時これが為に眩暈(めまい)を起こしさうであった。

 その後六ヶ月を経て、パラデュクは妻に病死された。妻は愛児を亡くした悲しみから病を得たのだ。パラデュクは妻の枕頭に写真機を備へ、死の瞬間に撮影をして現像したのを見ると、西瓜(スイカ)大の大きさの三個の光球が死骸の二、三寸の上に留まってゐた。
 次いで撮影したものは右の光球が収縮して光輝を増し、美しい糸状に延長して彼方(かなた)此方(こなた)へと流動することを示した。その次なるものは死後十五分ばかりに撮影したもので、これは糸が一層細長く伸びて光球を半ば捲いてゐた。

 その次一時間目に撮影したものは、三個の光球は収縮して一団となって右方に伸び、その緒を為す糸状物は愈々(いよいよ)細く聚(し)まりて、球が体外に逸し去らんとするとき、これを引き留めやうとするさまが現れた。
 それからまた一時間後にはパラデュクの肉眼で、光球は死体の胸の上に形の整へる正球となって静止し、光糸がこれを捲いて他方へ導くが如き容子に見へた。遂に球は胸部を離れて浮かび上がり、室を出てパラデュクの寝室に入って来た。パラデュクは球を追ふて行き、生前の妻に物言ふ如くに話しかけると、光球は接触した。そのとき一種の冷気の身に浸(し)むを感じた。
 その後数日の間、光球は屋内の所々で見られた。パラデュクは霊媒を使って亡き妻の霊感筆記を取らしめて問答を試みることに成功した。

<我国で得られた幽霊写真>
 我国に於て偶然的に得られた自然の幽霊写真も割合に多い方だ。今その二、三を記載する。
 大正十年の春、奈良県高安の天理教支部に山本寛三郎と云ふのがあって、天理教の学校卒業間際に心臓病で頓死をした。その後十二、三日目に、同支部の生徒が四散するので記念写真を撮るとて、同所の前へ整列してレンズに収まった。
 写真師は道馬軒主人で、現像して蒼くなって詰所へ来て「写真に山本君が映って居る」と大声で言った。皆が頭を集めて覗くと、如何にも死んだ山本が教服姿で後列に澄まし込んでゐる。尤も生体者ほどに明瞭な姿ではないが、皆々感慨に打たれたといふ。

 三河国福江町の観音寺なる小寺に中根智泉と云ふ僧がゐた。明治の中年に二度まで還俗をしたが、その俗人時代のこと、或る日某店に休息をしたとき、店の者が番茶を二つ汲んで出たから妙なことゝ思った。
 また他の日に小旅行をして宿屋に着くと、夕飯に二人前の膳が運ばれたので「一人前で宜しい」と言ふと、給仕女が不思議な顔をして一つの膳を取り除けた。翌朝もまた二人前の膳を運んで来たから智泉は立腹し、出発前の勘定に「一人前しか払はぬ」と言ひ、亭主が出て来て「食ふ食はないには関せぬ、二人連れで泊まった人には二人前を請求する権利がある」とて争ひになった。

 智泉は「馬鹿を言ふな、俺に連れはない」と言ふと、亭主と女中とが口を揃へて「現に貴君の背後に一人の若い女が座って居られるではないか」と言ふ。智泉は怒って「巡査を呼べ」と言ふ。結局巡査が来たが、巡査も「婦人が居る」と言ふから智泉は後ろを見たが、これには見へない。
 そこで双方真剣に争論し、果てしがつかぬので、巡査は写真師を連れて来てその座敷を撮影させ、これを現像すると、智泉の背後の女も映った。智泉は見て初めて驚いた。彼の死んだ元の情婦であるのだ。智泉は懺悔したがこの事が四方に宣伝し、その後仏事で民家にて食事のときには必ず二人前の膳を据へられる習慣になった。

 帝都大久保の稜威会員中に、二人まで幽霊写真の珍しいのを実見した者がある。その一人・高橋止観氏の談に、大正の末年に自分は奉天で十三名の人々と庭の出口で連写をした。現像して見ると三個の幽霊が出てゐる。
 一個は並み居る人の中に面貌ばかり現して居り、人々の後方にあるガラス戸の外であるやうでもあり、また内でもあるやうにボンヤリと上半身を現して居り、もう一個は廂(ひさし)の上に顎(あご)が載って居るほどに非常に丈が高く、足は小児の足の如く痩せてゐた奇形の幽霊であったが、一行中に内地人の易者があって、この幽霊はそれに憑いて来た亡霊が映ったものと知れた。
 この易者は小さい箱を大事に背負って歩いて居たのであるが、写真を撮る前にその箱が独りでにガタガタ震えてゐるやうに見られて居たから怪しく思ったのだ。この易者は因縁つきの人物らしく想像されて居た。当日の写真は陰気臭くて嫌であったから他に与(や)ったところ、その人間は焼き棄てたといふことである。今から思ふと惜しい幽霊写真であった云々。

 同じく会員・東(あずま)秀生氏の談に、自分は大正の初年に伊勢の古市の某素封家(そほうか)にて得られた写真を見た。この某方には娘ばかりが六人あって、母親の好みにより長女から末の六女まで、長女は琴、次女は三味線、三女は胡弓といふやうに一人毎に異なった遊芸を仕込んだ。
 或る年その母親が死んで六回忌の法事のときに、六人の娘達が我家の仏間に並んで各自の楽器を手にして居るのを写真に映したところ、一列の頭上に盛装をした亡き母の幽霊が映り出て居るので大に怪しみ、三度写真を撮り換へたが三度ながら亡き母の幽霊が映って居たといふことであった。その幽霊の容貌は極めて平和な姿であった。
 もう一つは九州で見た写真である。父親は日露戦争で戦死し、妻と長男と二人、父の命日に記念の写真を撮ると、二人の中央の後方に白鉢巻をした剣舞姿の父の姿が映ってゐた云々。

清風道人

カテゴリ:奇蹟の書
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