日本古学アカデミー

#00670 2020.8.17
水位先生と神通(1) -英雄万古の悲哀-

 


(清風道人云、この「水位先生と神通」は、宮地神仙道道統第四代・清水宗徳先生(道号・南岳)が、「地上開闢以来の奇蹟」と副題されて昭和二十九年二月二十八日及び三月三十一日付の神仙道広報誌に掲載された論稿です。 #0382【水位先生の門流(4) -道統第四代・南岳先生-】>> )

 神仙の宗国たる日本国に生を享けて名籍を玄門に留め、顕幽一如霊魂千万年の真道を同行すべく、不世出の神人宮地水位先生の門人として共に先師御五十年祭を迎へ奉ることに、つくづくと道縁の奇霊(くしび)さを感じつゝこの一文を草する次第である。
 すべては遠き深き勝縁の然らしむるところではあるが、まず私は道士諸彦(しょげん)の透徹した霊性に敬意を表したいと思ふ。

 水位師仙御遺業中興の提唱者としての立場に在る私は、始終門外の張三李四(ちょうさんりし)から同じテーマの質疑を受け取るのであるが、その要旨は大体次の如きものである。
 一、水位先生が非常な神学者であり一種の霊感者であったことは認められるが、
 二、その神通の結果齎(もたら)された神集岳神界の実消息なるものを全幅的に信ずることは出来ぬ。
 三、一タイ誰が如何なる方法で水位先生の神通の真実性を証明してくれるのか、
 四、証明なくして信ずるという様なことは一種の盲信である。
 その結論として、「濫りに御遺業顕章などと盲信を鼓吹(こすい)するやうなことは差し控へるべきではないか」といふ語勢があり、現に私が宮地宗家の招請により五台山中に居を卜(ぼく)して神仙道本部(道士会)の道務に携はるやうになった当初に於ても、「遺族や親族は宗族宮地水位の名誉の為にその迷信的な分野を隠蔽してあげるべきが当然で、それが同族としての思ひ遣りではないか。然るにその最も非常識な迷信的分野ばかりを顕彰しようとするのは、先人を冒涜するも甚だしいではないか」という意味の抗議が某方面や某々筋から持ち込まれたほどである。

 所謂(いわゆる)官僚神道学者などが得たり賢しとつけ込んで来る例の論鋒であるが、素より私は一笑に付する価値だになき卑劣なる世迷ひ言であるとして相手にもしなかった。「山犬の空に吠ゆとも雲に乗る天の磐船たゆたふべしや」といふ平田(篤胤)先生の歌意の通りである。
 人間としての高等な思慮、それも天之磐船に乗蹻(じょうきょう)すべき仙種の霊明な思慮と、山野を彷徨(ほうこう)する山犬の妄想とを比較するなど、つまらぬエネルギーの浪費に過ぎないことは、証明を俟たずして明らかであるからである。

 私が神仙道道士の霊性に敬意を表するといふ意味は、本来仙種に非ざれば了得すべからざる高次元の霊的事実を、何らの所謂証明的手続きを経ずして、かの老子が「上士は一決して一切了す」と謂へるが如くに一決一信して感得する、その霊識の高さと深さとに共感を表明する意味である。 #0650【悠久不死の玄道(4) -上士は一決して一切了る-】>>
 毎度申し上げることであるが、如何に高才博学であっても、如何に信仰心に強くあっても、神仙の道が信得せられるや否やはこれ等とは又別問題で、これを感得しこれを一信し得るに足る先天的とでも謂ふべき感識力に欠けてゐては到底通達不可能であり、水位先生は神仙の道を成就し得る者は本来幽真界に在って仙名を得た者が現界に生れ出て来るからだといふ意味のことさへ申して居られる程である。
(註、「三等判令より八十等迄の内の官にありて現界に生れたる人は必ず神仙の道を好募するなり。又必ず終にその道を得るに至る。」(『幽界記』 #0375【『異境備忘録』の研究(60) -神仙道の心得-】>> )

 更に条件の悪いことは、我が神仙道の特徴としてその骨髄は実に水位先生を以て古を為せる点で、その一点に於て些かの信向を異にせば眼界凡て背離するに至るのである。
 すなはち我が神仙道は水位派神仙道とも称せられる如く、水位師仙の神通霊感に全幅の信順を捧げて居り、水位師仙の神通霊感によりて齎されたる神界の実相――神集岳及び万霊神岳神界の実消息を信仰の対象として信教の根本と立てゝゐる関係から、もし人ありて水位先生の神通霊感に一疑無き信孚(しんふ)を感ずることを得ずとせんか、遂に袂を別ちて別道に去るの外無きに至るので、その信向の係るところ、実に微にして且つ危なる一点が存するのである。 #0655【宮地神仙道要義(5) -神仙界の実相-】>>

 等しく有神論者と謂っても、その神なるものゝ認識に千種万別あるは止むを得ずとして、幸ひに神仙の人格的実在を信じ、また世に仙道の存する事実に就て見解を同じうし得たりとしても、果たして吾が徒(ともがら)と信向を一つにし得るや否やは予(あらかじ)め期し難いとせねばならぬ。
 蓬莱を談じ瀛州(えいしゅう)を語り方丈を説き黄帝・老子を論ずるのであれば、道書数千巻の浩瀚(こうかん)と綿々五千年の蒼然たる春秋の裏付けがあり、これを否としてもかれを是とし、一を排しても他を採るべき余地を存してゐる。 #0323【『異境備忘録』の研究(8) -青真小童君-】>> #0550【東王父・西王母伝(7) -幽事の機微-】>>
 然るに我が神仙道に於ては、仮初(かりそめ)にも水位先師の霊感神通に疑義を挟むべきものありとせば、神集岳信仰の拠って立つところも又疑義を孕(はら)むことゝなるので、一決一了の全信か然らずんば否といふ、極めて微妙な岐路に立つことゝなるのである。

 更に条件を狭くすることは、その神通霊感によりて齎されたところの神界の実相を窺ふべき資料も甚だしく局限されてゐることで、僅かに『異境備忘録』一巻と『幽界記』中の極めて限定された数十葉を以てその真に会しなければならぬ。 #0316【『異境備忘録』の研究(1) -概略-】>>
 これ等の只淡々と体験を綴られた僅少なる備忘の資料の中から、道書数千巻を跨(また)いで修真の真道標を把握することは、豈(あに)小少の凡骨を以ては到底決し難いところとせねばならぬ。

 しかも神集岳、万霊神岳といふ如き神仙界の名称は、我が日本の神典は素より道書数千巻の中にも未だ嘗て現れたること無き文字であって、それが些少(さしょう)たる一仙境といふならばともかくとして、宇内神仙界の根本中府であり、最高神界の消息であるところに、在来の古学玄学の知識のみ以てしては理解し難い趣があり、多く道書に染指した者ほど一種奇異の念を生ぜしむるに至るのである。
 内外古今の文献を以て傍証すべからざる神仙界の名称を以て、しかもそれが宇内最高神界の実消息として突如として見参するに於ては、何人(なんびと)と雖(いえど)も早急なる結論を留保せざるを得ざるの態度を持するに至ることは、蓋し人情の常であらう。

 しかし一面に於て、古今の文献に傍証無き名称なればこそ、よりその作為的に出たるものに非ざる真実性を直感し得る深理をも悟らねばならぬ筈であるが、先入主となる通念から謂って誰人(たれびと)にもその理を求めることは困難であらう。
 それだけに眼光紙背を貫きて文脈を索隠し、一挙に次元の障壁を穿鑿(せんさく)してその真意を直感直悟する程の透徹せる霊性を必要とするのである。さればこそ先師はこれ等神界の実相を公にすることに就ては常に慎重の態度を執られ、余程道骨の門人でなければこれを語られなかった。

 千古秘せられたる最高神界の実消息を、神霧を開いて人間(じんかん)に伝へられるといふやうなことは、正に地上開闢以来の一大事である。その実に一大事たる所以は、唯その一大事たる所以を直感し得る者のみがこれを悟り得ることで、直感一決して一切了するだけの先天的な感識力を具備せざれば如何とも言語筆致の伝へ得べからざる感応道交の境地である。
 これはたとへ父子孫々血統伝脈の間と雖も如何とも及ぼし難いところで、この事は水位先生も深く遠く後代を慮(おもんばか)られたものと見え、その家牒の中に子々孫々への御遺言として、「祖先以来代々に著す書類は当時迂遠(うえん)の論説ありとも決して遺失せず霊舎の傍に儲蓄(ちょちく)して常に虫の害無きを慮るべし」と一条を入れて遺記されてゐる。英雄万古の悲哀の惻々(そくそく)として胸に迫るを覚ゆるは豈私一人のみならむや。

 「当時迂遠の論説」云々の意は、申す迄もなく後代の子孫にして水位先生の論旨を迂遠の説と目してその霊著を亡逸せしむるやうの事無きよう遺志されたもので、その用意極めて悲惵(ひちょう)であります。
 古今一万載の神人の真本領を傍人の「迷信的分野」式助言で湮没(いんぼつ)に帰せしめざるやう固く後代を戒めて居られるので、御遺著に対して「あるべき筋」を指示し、言外千万無量の余韻を残して居られることに注目しなければならない。尚この事に就ては後に触れたいと思ふ。

清風道人

カテゴリ:水位先生と神通
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