日本古学アカデミー

#00610 2019.8.22
生類の霊異(43) -蛇(解説)-

 


 人によっては、蛇は愛すべき動物であるやうに云ふ者がある。又、田舎によると、蛇でも捕ると大に怒鳴る農夫があるが、これは蛇は鼠や苗代田を荒し廻る蛙を食ふので益虫であるとの見解から来たことである。
 又、動物学者は、蛇は古来人間の誤解や迫害を受けて居る不幸な動物であるやうに云って居るが、これも又蛇に対して誤解を有してゐる人間である。無害の蛇を飼養して馴れさせたら、可愛らしい情も起こるであらう。又、害虫・害獣を捕食する点から見れば益虫とも言へるであらう。
 又、動物学者が所謂(いわゆる)学問的に蛇を見れば、生きた動物を捕食する爬虫類たるものに過ぎないで、その外に何等の刺戟(しげき)も感想も起こさないのである。

 しかし、蛇は一般人には好かれない動物の第一たるものである。如何に無害の蛇が人に馴れ親しむにせよ、如何に苗代田を荒す蛙や畑物を食ふ野鼠類を捕食するにせよ、或は又如何に滋養食餌(しょくじ)として有価値の動物たるにせよ、人は決して蛇を尊敬も愛護もしたくない事実が見える。比較的蛇を恐れない人でも、「蛇は嫌な奴だ」と言って居る。
 猿や雀燕などの小鳥も、極度の憎悪を以て蛇に対することはよく吾等の実見に触れることである。雀が庭先や屋根の上の蛇を見る時に、狂乱的に騒鳴するのは誰でも知ってゐる。人間でも女子は、男子よりも強度の憎悪と恐怖とを蛇に持つことは、これも顕著なことである。

 何故に蛇が人間に嫌はれるかと云ふと、形貌が醜悪なことよりも、蝮(マムシ)やハブや響尾(ガラガラ)蛇やコブラのやうな恐ろしき咬毒(こうどく)あるものが居ることよりも、又途方もない巨体の蛇があって、家禽家畜を呑み、時としては人をも呑むことよりも、蛇の特有なる魔性の力なるものを忌むのが最大の原因である。
 蛇の魔性と云ふは、自体よりも大なるものを呑み、足無くして音無くのたくり歩きて人家に入り、或は閨房(けいぼう)に潜み、或は男茎(おはせ)を呑み、甚だしきは婦人を昏睡せしめてこれを魅烝(みじょう)し、或はその陰所に竄入(ざんにゅう)して死亡せしめる。(大正年代に入っても帝都新宿方面なる某蛇屋の妻女にその実例がある。)
 生理的に奇怪であるが、精神的にも奇怪な能力を持って居るのを云ふ。蛇の屈伸自在な体制が、その陰険性、執着性、淫蕩(いんとう)性、魅惑性等の好ましからざる性習の実行に適するのは、天地の機能の悪跡だ。

 世界のあらゆる自然科学的動物学書に蛇の魔性のことを書いてないのは、動物学者が知って居ても書かぬのか、知らぬから書かぬのか。知って居て書かぬとせば、魔性のことは非学術的と思ってのことであらうか。又、知らぬとせば、外国、主として西洋諸国の蛇は平凡の動物であって魔性的でないからか、又は魔性的の能力は我国や支那などの蛇と同様であっても、観察の眼力が無くしてその頭脳に映じないからの事であらうか。
 吾等の想像では、西洋の蛇でも魔性的能力は殆ど東洋の蛇と同じやうであるけれど、西洋人の観察が粗末であると見做すわけがある。

 嘗て英吉利(イギリス)の某動物心理学者の著書にて、蛇の精神力の事例として唯一つの事実が書いてあったのを見た。それは公園の樹上に栗鼠(リス)が遊んで居たところへ、下へ蛇が出て来て栗鼠を見詰めてゐると、栗鼠がゾワついて樹上で一進一退しながら、追々に幹を伝って下りて来て、遂に吾と吾身を蛇の巨口中に投じたのを見たとて不思議がった書きぶりであった。
 これは動物の平凡なる磁気力の一例だけれど、唯物式に固まった土地の民族の学者だから、鬼の首でも獲ったやうに喜んで書いてゐた。

 しかし時代の思潮の流れたるものか、時代は我国人をして追々国民性心理を捨てゝ行き、女でも蛇を見て唾をかけるやうな者は二、三十年来滅切少なくなった。
 心臓病の女が死にかけて居ても、必ずその病が癒るものと信じながら、蝮酒なら飲まぬと主張した様な女は今日には見られかねるやうになった。死ぬるのは嫌だが、嫌な物は死んでも口にせぬと意地はるところが、日本婦人の特質的美点の発露であらう。

 婦女が蛇を嫌はぬと云ふのは、著者(岡田建文大人)に言はすと一種の精神麻痺症で曲(くせ)ごとだ。往年、東都の日向某の美妻が、バスケットの中へ青大将を入れて旅行し、汽車中にその蛇をヌタクラして人が騒いだら、笑って袂(たもと)の中へ掴んで入れたのは、美の凄味を加へるお化粧行為だと称した新聞記事を見て怒った国民も、今では蛇を滋養食餌としたり薬剤にしたのを平気で服用するほどに所謂(いわゆる)唯物文明式に進化した。
 それと云ふのも、山沢が年々に拓(ひら)かれて、山の主とか池の主とか云ふ怪蛇や野良の人呑大蛇などが減少したことも遠因もしくは近因である。蛇の魔性的能力も、見えない太陽の何々外光線やラジオの電波が縦横無尽に飛廻るやうになった世界だから、これも又追々に衰退するであらうから、今の内に少し書きとめて置くのも無用ではあるまい。

 蛇類を人や猿が好かぬのは、その性習も無論好かないが、第一その体貌が嫌に出来て居る。蛇にもし足があるとか、角があるとかするならば、却って感じが良くなるに相違はないと想ふ。蛇の眼と蛇の腹の黄白い鱗を見ると実に嫌な感じが起こる。
 一昨年、長女が山へ摘草(つみくさ)に行き、或る古砦(こさい)の前に立った時、石垣の穴の口にかなり大きい蛇が頭だけのぞかして、こちらを見詰めてゐたその眼と長女の眼とが偶然一線になった刹那、長女は蛇に吸ひ込まれるやうに思ったとて、帰ってから身ぶるい附けて話した。
 同じ爬虫類でも、蜥蜴(トカゲ)の眼は瞬きの出来る瞼(まぶた)があって凄味が無いが、蛇の眼は瞼が無くて眼玉も動かないので、特に他を魅するに適して居る。但し蛇の眼は単に外観的構造の為に他を魅惑するのではなく、眼に或る超物質的な力があることは、如何なる唯物万能家も否定は出来まい。

 著者は嘗て蛇の交尾季に於て、その性的執着力に関して一驚を喫した怪奇な事実を経験し、性と妬心(としん)と執着との共通の悪徳から推しても、蛇を爬虫類の一種として単純な観察を投与して安んじてゐる一般の動物学者等の心事を異(あやし)むものである。
 蛇中には無害淡白な性習の種類もあるけれど、概括して妖的怪物の実質を具備して居ることは誣(し)ゐ難い。蛇の嫉妬深く又執念深いことは小説的だなどゝ云ふ人が少なくないけれど、決して小説などではなく、厳(げん)とした事実である。

 彼の阿弗利加(アフリカ)の北部の砂地に栖(す)む一種の蛇に、嫉妬心の強いので有名なのがある。その蛇は砂の中に体を埋めて頭の尖端(せんたん)を僅かばかりに出して居り、小鳥や蛙や鼠だの蜥蜴だのゝ通るのを待って、飛蒐(とびかか)って捕るのを見ると、仲間の奴が直ぐに駆け出てその獲物を奪はうとして争闘を始める。
 その争闘の為に獲物が逃げ出すことがあると、一疋の蛇がそれを逐ひかける。すると他の一疋がそれを妨げにかゝり、遂に獲物を完全に逃がしてしまうことが少なくない。

 蛇の嫉妬心、執着心の深い動物たる所以(ゆえん)が、輪廻転生を信ずる人をして、妬婦(とふ)又は失恋男子が蛇に再生し、又はその亡魂が蛇に憑依して目的人に纏綿(てんめん)し、又は恨みある人の首に捲きついて離れないと云ふやうな東洋的宗教的な妖的事実を発生さすと想はせる。何にしても蛇はたゞ物ではない。 #0275【『幽界物語』の研究(45) -人霊の行方-】>> #0373【『異境備忘録』の研究(58) -龍神-】>>

清風道人

カテゴリ:生類の霊異
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