日本古学アカデミー

#00578 2019.2.10
生類の霊異(11) -河童(現代の事例)-

 


 前記諸項の河童の記述は、悉く明治以前の材料に依るものであって、詳細なものはあっても、聊(いささ)か頼りない感じがあるが、著者(岡田建文大人)は自ら石見国に於て得た明治以後の材料を下に記(か)かう。 #0577【生類の霊異(10) -河童(解説・下)-】>>

<農夫の実見>
 安濃(あのう)郡大田町の農・春日徳次郎(今は故人)は、数度同地の大田川字樋の上の岸で実見した。幅約三十間ある川の堤防から対岸に居るのを見るのに、二尺ばかりの猿に似て居った。その出て居る場所はいつも定まって居り、竹藪の下に岸がくれ込んでその下は深淵(しんえん)になって居るが、その真上の柳の木の根元に座って居るのであったと云ふ。
 徳次郎は自分一人で見たのではなく、折には連れがあって、その人にも指示して見せたと云ふ。これは明治十六、七年頃のことであった。

<瀧に住む河童>
 明治二十二、三年の頃、同郡刺鹿(さつか)村大字猪谷の奥の清瀧を見物に行った大田町の某(なにがし)も河童を見たと云ふ。瀧へ近づくと、瀧の前面にある大巌の上に、一見猿の如きものが居たが、人の近づくのを見て、身を躍らせて巌下の瀧壺の深潭(しんたん)中に投入したと云ふ。
 この地方も河童のことを猿猴(えんこう)と呼んでゐる。前記の春日徳次郎の見たと云ふ場所から約半里余りの下流の土江の竹藪にも河童が居って人をばかすとて、明治二十一、二年頃には、日が暮れると婦女子は一人歩きをしなかった。

<河童の子を捕る>
 約三十年前に、上の刺鹿村から一里ばかり北の大津で、或る農家の主人が、朝早く波根湖(はねこ)の水涯(すいがい)に据えてある水車を踏みに行ったところ、前日から仕掛けてあったその水車の台の下に、淡黒い大きな蟇のやうな奇怪な動物が三疋這ひ込んで居たので、捉へて不思議がって眺めて居たところ、通りがゝりの人が見て、それは河童の子であると言ったので、農夫が後難を恐れて水中に放ったら、悉く深みへ逃げて行った。
 多分この時、河童の親が子供を連れて出て、水車の下で遊んで居たところへ農夫が来たので、親ばかり逸早く逃げ去り、子は残って居たのであらうと想像された。

 又その頃、大津の隣接地たる柳瀬(やなせ)と云ふ海岸の漁村で、海の漁網にかゝって一疋の河童が捕れたが、同地方では河童が来ると魚を寄せると云ふ伝説があるので、殺さずに酒を飲まして海に放ったさうだ。
 肥前の方では反対に、河童が来ると海の魚が逃げて漁が無いと云ふ伝説があるので、同地の海村では河童を悪(にく)んで居ると云ふことも面白い。

<猿、河童を捕ふ>
 明治初年、邑智(おおち)郡の川本村と吾郷(あごう)村との間の地点にて、一人の猿廻しが江川(ごうのかわ)の岸で休憩をして居ると、猿が突然勢ひ猛く河中に飛込み、水沫(みなわ)を立てゝ水中に潜り入ると、やがて一疋の河童を捕って上って来た。その河童は村民の一人に与へられたが、後に殺さずに戒めて水中に放たれたと云ふ。
(河童は猿と仇敵の間柄であるとの説がある。『笈埃(きゅうあい)随筆』に、河童、猿を見れば動く能(あた)はず、猿も河童を見れば捕へずにはおかぬ、故に猿曳(さるひき)の河を渉る時は、猿の顔を包むと云ふ云々。又、地方によりては厠に猿を飼うて牛馬の災いを払ふと云伝へる所があるが、猿と河童との関係に因るのであらう。)

<馬に捕へらる>
 迩摩(にま)郡静間(しずま)村を貫流する静間川の下流に、神田の淵と云ふがあった。現今では大に浅くなったけれど、明治初年頃までは見るも恐ろしい淵で、水が藍(あい)を湛(たた)へ渦を捲いて居り、古来多くの村民が溺死した所で、村民は、そこには河童の統領が栖(す)まってゐると言伝へてゐた。

 或る時、神田の淵から程近い所の釜屋と云ふ農家の馬が、長い口綱を引摺りながら、静間川の磧(かわら)へ出て草を食って居たところ、河童が出て来て馬の綱をグルグルと自分の躯(からだ)に捲付けた。無論これは馬を水中に引込む考へであったらしい。すると馬は驚いて磧から我屋へと走り出したところ、河童は綱から脱走することが出来ず、馬に引摺られて釜屋の庭へ来たのを人々に生捕りにされた。
 釜屋では数日間河童を檻に繋いで人々に曝(さら)し大評判になってゐたが、毎夜河童が釜屋の主人の夢枕に立って助命を哀願するので、後にこれを放ち去らしめた。
(河童が馬を牽(ひ)き損ねて人に捕へられ、種々の条件附きで助命された昔話は各地にある。)

<怪しの手紙>
 明治の中年のことである。安濃郡島井村の喜三郎と云ふ魚商人が、或る日、出雲国境なる邑智郡の奥へ行って、夕方帰途に就き、小原村の江川岸を通る時、後から「モシモシ」と呼止める者があった。
 喜三郎は何者かと振返って見ると、手拭を眉深(まぶか)に被った女が追ひついて来て、馴れなれしげな口調で、「おまへさんは、大田を通うて帰るのか、静間を通うて帰るのか」と問うたので、「自分は静間を通うて帰るのだが、何か用事どもがあるのか」と言ったら、「静間を通られるなら頼みがある、この手紙を神田の淵へ投げ込んで下さい」とて、一通の紙片の無造作に折り畳んだのを託して引返して行った。

 それから喜三郎は安濃郡川合村の町の入り口の岩谷屋と云ふ又六屋へ立寄り、腰掛けで酒を一本注文して飲みながら主人に対(むか)ひ、「先刻小原でかくかくのことがあった」とて、女の頼みの事を語り、「一タイ淵へ手紙を投げると云ふことは何のためだらう」と言ったので、主人が不思議がり、「静間川の神田の淵は河童の栖家(すみか)だと云ふではないか、そいつあ変だ、その手紙を見せよ」と言った。

 そこで喜三郎は、手紙を出して見て貰ふと、人間の文字ではなく、蚯蚓(みみず)ののたくった痕のやうなものが書いてあったので、「これこの通りだ、手拭被(かず)きの女は江川の河童の化けで、おまへを殺(と)るやうにとて神田の淵へ合図するのに違ひはないぞ」と言った、
 喜三郎は始めて気がついて震へ上り、酒の酔も一時に覚めて、「この手紙はどうするが宜いだらうか」と亭主に相談をかけた。亭主は「それは焼いてしまふが宜い」とて、直ぐに火にかけた。
 喜三郎は、川合から道を変へて大田・長久(ながひさ)の二村を経て自村へ帰り、当分二、三ヶ月は、用事があっても静間川の方面には避けて行かなかった。

清風道人

カテゴリ:生類の霊異
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