日本古学アカデミー

#00533 2018.5.8
君子不死之国考(6) -孔子が憧憬した君子之国-

 


 然るに、尭(ぎょう)の時代に成りたる『山海経(せんがいきょう)』に、本邦を君子之国とも不死之国とも載せ置きたるより、漢土にては、東海中に然る国在りとは普く人の信ずる所となりて、代々これを云ひたる者少なからず。 #0528【君子不死之国考(1) -概略-】>>

 中に就ても、まずこの考への初めに挙げたる、范曄(はんよう)の『東夷伝』、または章懐太子(しょうかいたいし)の註、古くはかの『論語』に、「子、九夷ニ居(お)ラント欲ス。或ル人ノ曰ク、陋(ろう)ナリ、コレヲ如何(いかん)セン。子、曰ク、コレニ君子居ラバ、何ノ陋カコレ有ラン」(清風道人訳、孔子が道義の廃れた自国を嘆いて「九夷国に住みたい」と言った。ある人が「九夷は野蛮です。これをどうするのです」と言うと、孔子は「君子が居る国なのだから野蛮ではない」と答えた)と有るも、「又、道行ハレズ、桴(いかだ)ニ乗リテ海ニ浮カバン。我ニ従フ者ハ、ソレ由(ゆう)カト。子路、コレヲ聞キテ喜ブ」(清風道人訳、孔子が「道徳が行われず、桴に乗って海外に行きたいが、私に従う者は由(弟子の子路)ぐらいか」と言った。子路はこれを聞いて喜んだ)と有るも皆、孔子が東方に在る君子之国を慕ひたる事実なることは、本文の儘にてもよく分かりたれど、孔子も『山海経』以来、東海中に君子之国の在ることを信じて居(おり)たるより、その道義の行はれざるを憤る余り、遂にこの語を発したるや疑ひなし。

 また、これと思ひ合すべきは、『礼記』の孔子の語中に、「少連(こむらじ)・大連(おおむらじ)、善ク喪ニ居ル。三日怠ラズ。三月解カズ。期悲哀シ、三年憂フ。東夷ノ子ナリ」とあるこれなり。それは何かと云ふに、漢土にて東夷と云ふは、多く本邦を指すこと常なるに、この語中、「東夷ノ子ナリ」とあるは、必ず本邦人の子なりと云ふことなるべし。
 而(しか)して、本邦古代の官名に「大連」あるは、考ふべきのことならずや。こゝに於て、熟々(つらつら)案ずるに、本邦にてこの官を置かれたるは垂仁天皇の御代なれば、孔子の時代よりは余程後なれど、要するに本邦の連(むらじ)は群主(むれぬし)の義にて、多くの事を主管するの名称と聞こゆれば、後世にて大名・小名、または国司・郡頭など云へるものゝ如く、古代に在りて、大小の土地を主領し、多少の人民を支配する者をば、かく称せしものと見えたり。
 然れば、これを官名に用ふたるは後なれども、この名称は建国の始めより有りたりとも云ふべきか、それは『古事記』『日本書紀』『姓氏録』等を見れば自ずから明らかなるべし。

 さては、孔子の時代に当たりて、我が歴史にこそ見えね、本邦より然る群主たる者の、何か事故ありて、かの国に行きて、猶も本国の名を用ひて、少連・大連と称する兄弟の、よく父母に仕へたるが、その親の喪に遇へる事ありて、その時善く礼を行ひ、三日間は漿水(しょうすい)も口に入れず、三月間は喪を解かず、期(一週間)は悲哀し、三年間は憂戚の余り憔悴して居(おり)たりしを、孔子は至孝の道を尽くしたる者として、世の模範にと挙げ置きたるを、また『小学外篇』の明倫の章にもこれを引きて、その註に「二子、中国ニ進ミタルノミニアラズシテ、且ツ礼ヲ善クス。故ニ孔子、称ヘテコレヲ表ス」と有るを思へば、孔子は、この二子が礼を尽くせしを親しく見聞せし如くも聞こゆれば、唯に『山海経』等の古伝を信じたるのみにあらずして、或はこれ等の人より、我が皇室の事等をも詳しく聞きて、常に慕ひ居たりしより、懐憤の余り、「九夷ニ居ラント欲ス」との嘆をも発したるにはあらざるか。これは憶測の考へなれども、参考の為に云へり。

 また、九夷の事に就ては諸説あり、明の漳本清(しょうほんせい)は日本を以て九夷中の一つなりとし、北畠親房卿も日本は九夷の一つなるべしと云はれ、三善清行朝臣はこの九夷は全く日本の事なりとして、延喜十四年に奉れる『意見封事』の表に、本邦の事を云ひて「范子(はんし)、コレヲ君子之国ト謂(い)ヒ」とあるを始め、この外諸説多し。
 然れども、明の漳本清と北畠親房卿とが日本を以て九夷の一つなりとなしたるも、三善清行朝臣が九夷を以て本邦となしたるも、これは唯九夷を大きく見たると、小さく見たるとの差有るに止まりて、その日本を指せりとするに至りては同一なり。故に、孰れを是なりとするも、この考説には妨げ無きなり。

 何となれば、仮令(たとえ)日本を以て九夷中の一つなりとするも、孔子の「君子コレニ居ル」と云ひて慕ひたるは、必ず本邦なるべければなり。何を以てこれを云ふぞとなれば、孔子の九夷に居らんと欲するや、「桴ニ乗リテ海ニ浮カバン」と云へり。九夷もし海島にあらずむば、何ぞ桴用ゐるの必要有らむや。この一事を以ても、その本邦なることを証するに足るべし。
 大角翁(平田篤胤先生)、既に云へることあり。九夷とは我が筑紫国、即ち今の九州の、上古より自然の如く、九国に区別せる事を聞き伝へて、かくは名付けしなりと。もしこの説をして真(まこと)ならしめば、九夷は日本中の一つなり。
 而して、九夷の名、よく我が九国の数に合へるは、また奇ならずや。余(よ)は信じてこの説を採るものなり。 #0249【『幽界物語』の研究(19) -神々のこと-】>>

清風道人

カテゴリ:君子不死之国考
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