日本古学アカデミー

#00494 2017.9.13
扶桑皇典(24) -人身・上-

 


 高皇産霊神は、人身を生(な)し給ふ神徳なり(『伯家(はっけ)部類』)、万物化生の神なり(『神代巻口訣』)。然れば、高皇産霊神は、神魂(たましい)を人身に賦与し給ふ神にて、人よりしていへば、人は神の肉体を享けたる物なりと謂(い)ふべし。 #0216【神道宇宙観略説(7) -人は分霊神-】>>
 然れば、契沖阿闍梨も、天武天皇の御事を評し奉りて、「天皇は、壬申(じんしん)の乱を鎮めしめ給はんが為に、大御神の御議(はか)らひとして、末社の神霊を降して、一時、天皇と成させ給はん」といひ(『志斐賀他理(しいがたり)』)、前にいへる、富田春女に根国の神の告げたる語に、「汝が父は、吾が分魂なり」といひ、また高天原より降り来(きた)る侍女の語には、「汝の母は、吾が分魂なり」といへるを思へば、神の人に生まれ来る事あるは明白なる事実にして、特に人は神の生まれ来(きた)るならんと思はるゝは、人は声音言語も神の如くなるに、喜怒哀楽愛悪欲の七情も、大抵神と同じければなり。 #0056【神々の怒り】>>

 さて、思へば、その神魂の舍(やど)れる人身には、また奇異なる事あり。然るは、人身の主宰は神魂なりと雖(いえど)も、人身の生存は、人身に生々の気あればにて、この生々の気の奇異なるは、神魂の脱出する事ありて、脱出せし後も尚、生気は昏睡状態にある人身を生存せしむ。
 かの仙界に神魂の伴はれたる人、或は一時、神魂を抜かれたる人の如きは、その本体は知覚なく、昏睡すと雖も、体中には微温を存して、死亡に至らしめずして、神魂の還り来るを待ちて、数日、或は数十日を経しむる事あるなり。 #0232【『幽界物語』の研究(2) -幸安の幽顕往来-】>>

 然れば、かの墳墓の中に在りて、数年を生存せしもあり。入定(にゅうじょう)の僧の、数百年を経て蘇れるも、生気の散亡せざるが為なり。
 然るは、漢土・晋代の杜世といふ人の家にて、死者を葬る時、十五歳ばかりの婢女(はしため)、誤りて墓穴に陥りたりしを、知る人も無くて過ぎたりしに、十余年を経て、墓を開く事ありて、墓石など取り除きたれば、婢女は尚存命し居(おり)て、その間の事を問へば、「二、三日程の心地せり」といひ、年の程も陥りし時の十五、六歳に見えたりといへり(『続博物志』)。
 然れば、狐狸(こり)如きは、人に憑かりて久しく自己の体を離るゝ事あれども、その体は死亡せず。この故に、狐狸を使ふ者は、その霊の来るを見れば、まず本体の事を問ひて、その後に問ふべき事を問ふなり。 #0146【『仙境異聞』の研究(11) -狐が人に憑く?-】>>

 然れども、人身は、この神魂の舍るにあらざれば、活気ある動作は為す事能(あた)はず。また、仮令(たとえ)舍れるにもせよ、舍れる神魂に欠くる所ある時は、健全なる人と為る事能はず。
 漢土・通州の刺史(しし)に、鄭君といふ人ありき。その人の女(むすめ)は生得(しょうとく)多病にて、且つ精神も人並みならぬ所あるが如くなりしかば、鄭君その頃、王居士(こじ)といふ道術者に会ひて、女の容態を語りて療治を求めたるに、王居士は沈黙して聞き居たるが、さていふには、「これは病にはあらず、生魂の未だ全く来(きた)らざるなり。この女は某県令何某の再生せしなるに、何某善行ありて、死期になりても未だ死なざるに、女子は既に生まれたる故に、生魂両分して、全く調(ととの)はざるが故に、病あるが如くにて在るなり」と語りしかば、大いに驚きて、その県令といふを尋ねさせたるに、果たしてその人のありしが、後、数月を経て死にたりと聞こえたる時、女子の病も癒えたりといへり(『談薈』)。

 かの胎児の如きも、母胎にして生育すと雖も、その生育は生気のみにして、神魂の来りて舍らざる時は、母胎にして死亡するなどの事あるべし。また、神魂の人身に舍るは、多くは受胎と同時に舍るべしと雖も、生まるゝ前夜に至りて舍れるもあり。 #0009【生命が宿る瞬間】>>
 漢土に趙生といふ人ありき。夏日、友人と火酒を飲みて大酔して、樹間に倒れ臥して在りし程に、その僕(しもべ)の、水を澆(そそ)ぎたるより、遂に死にて、遊魂は水辺に彷徨(さまよ)ひ居たるに、犬の来れば懼れて、傍に妊婦の居合せたるを見しかば、身を妊婦の陰に避けんとして、覚えずその妊婦の胎中に入りたり。然るに、妊婦はこの夜、産ありて男子を生みたり。
 趙生はまた、その身の嬰児と為りて生まれたるは悟りしかど、せんやうも無かりしに、或る時、児を家に留めて、婦は外に出でんとするを見て、趙生は、「犬、床前に居る、外に出でんとならば、門を閉じて出でよ」と言ひたるにぞ、婦は大いに驚きて、「この児は妖怪なり、撃ち殺さん」と騒ぎしかば、その後は五歳になるまで何事も言はざりきといふ(『談薈』)。

 神魂の人身に舍るを尚いへば、蘇生したる人の霊の、異体の人に舍りしもあり。聖武天皇の御時、讃岐国鵜足(うたり)郡の女人、死にて冥府に参りしに、「人違ひなり」とて、許されて家に還りしが、その間三日を経たる事とて、その身は既に焼き棄てられて在りしかば、返り入らん身も無かりし間(ほど)、また冥府に赴きてその趣を訴へしに、「然らば、同国山田郡に女人の死にしがありて、未だその身もその儘にて在れば、その女人の身に入りて蘇れ」との事なりしかば、その女人の家に往きて蘇りたり。
 然るに、その女人の家の人どもは、蘇りしを悦び合へれど、女人は蘇りながら、「この家は我が生まれし家にはあらず、我が身の家は彼処(かしこ)にこそ」と、鵜足郡の家に赴きたり。然るに、鵜足郡の家にては、「知らぬ女人、不図来りて不思議なる事いふぞ」とて、罵り騒ぎし程に、この女人、「然らば」とて事の趣を在りし儘に述べて、冥府にての事ども一々に語りしかば、家の人も漸く会得して、終には二家を一家と為し間、女人は二家の財物を得て、二家の父母四人の子と為りて落着したりといふ(『霊異記』『今昔物語集』)。

 また、道士の如きは、自己の神魂を他の死屍に移して、本身は棄てたる事あり。漢土・元末の乱の頃、葉宗可といふ人、乱を避けて淮陽(わいよう)といふに在りしに、この所にも戦争起こりて、死屍は山野に満ちたりし間、隠るゝ方も無くて、地に臥して衆屍の中に雑(まじ)り居(おり)たるに、夜になりて月も明らかなるに、童子に燭(しょく)を執らせて来る者あり。
 近付く儘によくよく視れば、道士なり。道士は死屍の傍(そば)に至り、燭を以て群屍を照らして、老幼尫弱(おうじゃく)なるは手に提(さ)げて擲(なげう)つに、その軽き事、木葉の如くなりしが、その群屍の中より荘容なる一男子の、身体に傷無き者を見出し、喜色溢るゝが如くにて、やがて自身の衣を脱ぎてその男子に着せ、掻き抱きて、口より口に気を吹き入るゝ状(さま)なりしに、道士の気、漸く微弱になる儘に、死屍は次第に動き出して、終には欠伸(あくび)して目を開き、道士を押し除(の)けて蹶然(けつぜん)として起(た)ちて、また童子に燭を執らせて出で去りたりといふ(『談薈』)。

清風道人

カテゴリ:扶桑皇典
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