日本古学アカデミー

#00449 2016.12.10
『本朝神仙記伝』の研究(67) -霧島山六女仙-

 


 霧島山女仙は何人(なんびと)たることを詳らかにせず、またその来歴を知る由(よし)無し。善五郎、一名・政右衛門と云へる者を幽界に招き、数十年間使用したること有りしを以て、初めて世に知らるゝに至れり。

 今その梗概(あらまし)を挙げむに、まず政右衛門のことより云ふべし。政右衛門は薩摩国日置郡(ひおきごおり)市来郷(いちきごう)伊作田村久保園門の半兵衛が三男なり。後桜町天皇の明和七年、即ち寅年の寅日を以て生まる。故に幼名を虎と号(なづ)け、後改めて善五郎と呼び、また政右衛門と名乗れるとぞ。
 十二、三歳の時よりよく木に登ることを得て、枝等伝ふ状(さま)は宛(さなが)ら猿のやうにてありしと云へり。その性(たち)極めて正直にして戯言(たわぶれ)を云はず、酒を好まず、身健やかにして、田畑のことゞもよく勤めもしたりしとなむ。
 十五歳の時より霧島の明礬山(みょうばんざん)の雇はれ人と成りて、そこに二十六年間勤め、それより同山の花林寺(かりんじ)に行きて飯炊き・薪取り等して仕へたりしが、文化十年頃よりは仕へを辞めて伊作田村の家に帰り住みけるとかや。

 然るに善五郎十六歳になりし時、独り明礬山を夜歩きしけるに、身の丈七尺ばかりなる山伏法師の如き者、前に遮りて立てり。善五郎云ふ、「そなたは何者ぞ。仮令(たとえ)変化(へんげ)の者なりとも、我を食ふことはあるまじ」とて、打ち守り居(おり)たれば、即ち掻き消す如くに消へ失せけるが、その後も同じ状(さま)に見えたること、三年の間に六度までありけるを、人に漏らすべき心、露ほども起こらざりしなり。
 かくて幾ほどもあらぬに、夏の夜の明け方眠りてありけるに、外より善五郎が名を呼ぶ者ありけり。即ち手水使ひて立ち出ければ、五十ばかりの男ありて、「我は山神の御使なり。そなたを召すべきことありて迎ひに遣はし給へれば、とく我が後に付て来るべし」と云ふまゝに、従ひて出行くほどに、白昼のやうにて大路ありけり。

 一丁も行かぬやうにて大門のあるを入りもて行けば、檜皮葺(ひわだぶき)なる家の甚(いと)清く広からなるに、十七、八ばかりの女(おみな)六人あり。孰れが主なりとも見分け難く、皆髪長くかき垂れ、清らに装ひたるが相迎へたり。
 さてかの御使の男、道にて云ひけるは、「神等(かみたち)必ず『欲しき物あらば望めよ』と宣(のたま)ふべし。その時には『打出の小槌を賜へ』と云へ」と教へ置けるが、果たして然(さ)ることありて、即ち小槌を賜はりぬ。かくて茶と菓子とを出してあしらひ給ひしとぞ。この後行きし時も、茶と菓子との他は無かりしとなり。

 庭は甚(いと)広くて桃・栗・柿・蜜柑・梨等のやうのもの生(な)り満ちて、むく犬の一尺ばかりなると、髪長き馬の放ち飼ひたるが一つ。鶏は百ばかり群れ居(おり)たり。この庭に在るものどもは、この後行きし時もいつも変はることなく在りしとなり。さて、その小槌は五年ばかり持たりしかど、何一つ打ち出して見むと思ふ心は起こらざりしとか。
 その後、鹿児島下町に火災ありて、かの明礬山の親方・桑原何某が家も焼けゝれば、その家造るため彼処(かしこ)に行きてものしける時、かの小槌を紙に入れしまゝ物の上に置きけるが、その際に小槌は何処にか失せ無くなりしとぞ。

 かくて善五郎が仙境に行き始めしより後は、行かむとの心起こる時は月に二度も三度も行きけるが、唯片時の間に夢の心地して行けるとかや。行く時は大方(おおかた)夜中なりけれど、いつも明るくして昼のやうにてありしとなり。 #0239【『幽界物語』の研究(9) -仙境の気候-】>>
 許多の年月の間には、故郷に帰り居たる折もありけるが、その折とても行かむと思ふ心起これば、二十里ばかりの道程(みちのり)を夜の間に行き帰りしことありしが、もし別所に立ち寄り等する時は、行き着くこと叶はざりきと云ふ。
 また宮中に客人等おはすやうの気配する時は、速やかにも入りやらず、門に立ち休らひ等してあれば、「彼処に善五郎が来てあり、早く内へ」等宣(のたま)ふこともありけり。されどその客人等は如何なる御方にや、嘗て姿をば見しこと無く、また折々には琴や何やら妙なる物の音ども聴こゆることのありしとなり。

 またこの女神のおはす宮の内は、限りも無く広くて目も輝くばかり清らに造り磨きたりとぞ。されど調度めく物等も見えず、唯小さき炉と棚とのみありて、炉はいつも蓋を蔽ひて火等起こしたるは見ず。茶菓子等はいつもかの五十翁が立ち振る舞ひて、棚の中より取り出しけり。此方(こちら)より菓子等奉る時も、直ちにその棚に納め給へり。
 また女神の御衣は白、赤、黒、色々ありて、裾長く引き給へり。顔貌(かおかたち)の美しきこと云はむ方無く、世に在る類ひにあらず。
 御物語は、人界の上のことは宣ふことは無けれど、善五郎が人に兎や角と語りしこと、また里の女等に戯れたりしことゞも等、予(かね)てありしに違はず宣ひ出て、それを戒め給ふことは無けれど、笑ひしこと等はありしとぞ。またいつも然ることのみ物語り給ふべきもあらねど、そこに至りては漏らすべからぬことゞもゝあるにや、問ひても細かには語らざりしとなむ。
 またその宮の在る所は明礬山の半腹にて、七、八丁ばかり上の方なりと思はるれど、そことも知られずと云へり。

 さて、行かむとする前かたは眼色も変はりて、万常(よろずつね)やうならぬことのあるより、人々も目に付けば、出行く後を付けて試みる者もありけれど、一丁ばかり行くと見ゆる程に影も無くなり行きしとぞ。されど行かむと前かたのことは、自らは何の覚えも無かりしとなり。 #0232【『幽界物語』の研究(2) -幸安の幽顕往来-】>>
 かくて彼処に至りてある間は何も心に願はしきこと無く、また幸ひを得しことも有らねど、一度豆金・一歩金(いちぶきん)等やうの物、二、三賜りしことあり。それは皆小遣ひ捨て、里の女等にも与へたりとぞ。
 また薬を賜りしことは度々あり。それは真珠丸等に似て味はひ甘かりしが、それも人々にくれて今は一つも持たざる。また病家の願ひに因りて、薬を乞ひに参りしことも度々ありけるが、「かゝるわざは堅く慎むべし。もし背(そむ)かむには、汝が身、毒薬のために損なはるべし」と、後には戒め給ひしとなむ。

 また、かく幽境に行き通ふこと「五年の間は堅く人に漏らすな」と、かの御使の男の云へりけるを、八年までは包み居たりしが、その後鹿児島の赤松何某が霧島の湯にものせられし時、委しく尋ね取られしことありしより、世には漏れ聞こえたりとぞ。
 さて、その赤松より菓子一箱を善五郎に託(ことづ)けて山神に奉られしかば、即ち受け給ひて、また異なる菓子を返し賜はりしとぞ。このこと早く世に聞こえけるが、確かに然ることありと云へり。
 またある人、霧島に狩りに行かれし時、善五郎を招きて、「『この度の狩りに、獲物多(さわ)に在らせ給へ』と山神に願ひ申すなり。かく祈(ねぎ)申せし上に獲物無からむ時は、神なりともこの山に置き申さじ」と戯れのやうに云はれて、さて菓子一箱を奉られしに、「これは真実志ありてのわざならず、ふと取り敢へず奉りし物なり」と神等(かみたち)は宣へりとぞ。

 善五郎は、かく若かりし時より幾度となく行き通ひけるが、近くは去年の八月にも今年の二月にも行きけるが、二月に神等宣へるは、「長くこゝに留まらむの心あらば、親等との道をも絶ちて来るべし。もし然(さ)ばかりの心あらずは、兎も角もせよかし」と宣ふまにまに、今は長くも仕へ奉らじとて、それより暇(いとま)賜はりてまかり帰りぬれば、今はふつに通ふべき道も絶ち侍りきと云へるとぞ。
 然ればこの後、愈々打ち絶へて行き通ふこと無く成り果てしか、またほど経て更に行き通ふことゝもなりしか、善五郎がことは世に聞こえずなりしが、霧島山にこの女仙の幽境あることは、これより普く世人の知ることゝはなりしとなむ。

 厳夫云、本伝は『霧島山幽境真語』と云へる書より採りてこゝに載せたり。抑々(そもそも)同書は薩摩国人・八田知紀(はったとものり)主が、天保二年夏の頃、公用にて同国日置郡市来郷に物したる序(ついで)に、親しく善五郎に面会して打ち聞きたるまゝを編集したるものなるが、当時江戸在勤なりし同藩の士・池田武純(たけずみ)を以て平田篤胤翁の許に贈られしを、翁も年久しく聞かまほしく思はれし、この書を得られたる嬉しさを書き著はして、その端書きとせられしものもある、殊に正しき書なり。 #0254【『幽界物語』の研究(24) -平田篤胤大人のこと-】>>

 始め知紀主が、市来郷伊作田村にて、初めて善五郎に逢ひし時の状(さま)を記して、「彼を率ひて来れるを見るに、荒妙(あらたえ)のやれたる、膝頭(ひざがしら)等隠れもやらぬ甚(いと)短きを打ち着て、皮の煙草入れ提げたる状、誠に古びたる山賊(やまがつ)なりけり。されど生まれつきは健やかに、丈高く善きほどの男にて、目は小さきけれど瞳は小児の如く澄みたり。さて只管(ひたすら)に素直なる方にて、言語等かしこからず。かの物語を否む気色は無けれど、始終細かに語り続くること難(かた)げに見ゆめれば、此方より心して『かやうのことは無かりしや』等、兎に角に問ひを起こして聞き取りたるを、次々に記す」と云はれたり。

 また「この善五郎がことは余りに奇(あや)しき状なれば、もしくは狐等のものして然(しか)せしにはあらざるかと、一度は誰も疑ふわざなれど、試みに彼が常の心知らひや何やを里人どもにも委しく問ひ糺(ただ)しけるに、只管に正直なる者にして、朝夕の勤めをも忠実にして、聊かも異やうなることも為さず、疑はしき隈(くま)もあらずと云へり」と書かれ、またかの幽境にて干菓子・饅頭やうの物も賜はりしと云へるを思ふに、然る類ひの物は、皆人界の市に求め得て賜はりし物なり。

 然るは、「俗に『かづら銭をもて市に物買ひに来る者は、かくれ国よりの使ひ人なり』と云ふことあり。我が方言に、仙境をかくれ国と云ひ、蔓草(つるくさ)もてつなげる銭をかづら銭と云ふ」とも云はれ、また善五郎が為せることに就きては、「人の目に付きて奇(あや)しかりしは、彼が薪取りに行きし度毎(たびごと)に、人よりは甚(いと)速やかにして木を取り束ねて、一つに括らむとするには、蔓草やうのものならで、木にても何にても触れたるものにて括ればよく括られて、さて家に帰り着くと、即ち自ずと解けたりとぞ」と書きたり。
 この外、かの女仙の使の男のことを云ひて、「使の男も元世間より行き通ひて、遂に長く留まれるものならむ。始めより五十ばかりと見えたるが、猶後々も変はること無かりし」と云へり。

 また本伝の上を考ふるに、善五郎を召されたるは、その歳十七、八ばかりに見ゆる女仙六人のみにて、かの使ひに見えたる五十男の外には男も女も見えざりしものゝ如くなるは、これは全く女仙のみの住家にてありしなるべく、前にかの壮士が伴ひたる大口山の仙境も皆女仙のみにて、男仙の居らざりし如くなるを思ふに、仙境には然る女仙のみの住家も有ると見えたり。 #0428【『本朝神仙記伝』の研究(46) -大口山女仙-】>>

 また善五郎が云へる言の中に、「宮中に客人等おはすやうの気配する時は、速やかにも入りやらず門に立ち休らひ等し」と云ひ、また「その客人等は如何なる御方にや、嘗て姿をば見しこと無く、また折々には琴や何やら妙なる物の音ども聴こゆることのありし」と云へるに因りても、この山には他にも住む仙人の多きを想像(おもいや)るに足るべし。
 またその宮中に在る客人の姿をば見しこと無しとあるは、何か由ありて見せ給はぬなるべし。これより延(ひ)きて考ふるに、その客人の姿を見せ給はぬが如く、実はその女仙の宮の隣に軒を並べたる仙家ありても、神仙の許し無ければ我より見ることは叶はざるべし。 #0155【『仙境異聞』の研究(20) -幽界の謎-】>>

 これ等を思ふに、かの『十洲記』や『捨遺名山記』等に見えたる、元洲・炎洲・流洲・生洲及び蓬莱・方丈・瀛州等に仙家数万とも多しと記したる如く、この霧島山にも必ず仙家の多きこと、疑ひ無かるべし。
 今、余が云へる由は、本書の諸伝を相通じて玩味せば、自然にその意を得て明白なるに至るべし。猶本伝には、かの打ち出の小槌と云へる物のこと、及び女仙のこと、善五郎のこと等に就きて、云はまほしき節、少なからねど、長きに失するを恐れて皆これを省きぬ。

(清風道人云、霧島山女仙が善五郎を仙境に招き、終始善五郎を試すような扱いをされたのは、何らかの期待を以てのことゝ拝察されますが、それは最後の「長くこゝに留まらむの心あらば、親等との道をも絶ちて来るべし。もし然ばかりの心あらずは、兎も角もせよかし」という御言葉からも分かります。
 さて、『幽界物語』に見える清浄利仙君の御神示によれば、善五郎を導いた山神の御使は、元禄十六年八月二十四日、三十一歳で霧島山に入り、修練を積んで地仙と成った平瀬勘兵衛(雲居官蔵)で、その山神は勘兵衛の産土神の御后であり、また善五郎の産土神でもあるとのことです。 #0265【『幽界物語』の研究(35) -産土神のこと-】>> #0441【『本朝神仙記伝』の研究(59) -雲居官蔵-】>> )

清風道人

カテゴリ:『本朝神仙記伝』の研究
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