日本古学アカデミー

#00439 2016.10.11
『本朝神仙記伝』の研究(57) -長谷川角行-

 


 長谷川角行(かくぎょう)は肥前国長崎の人なり。父は長谷川左近太夫(さこんだゆう)久光と云ふ。母は二条清安の女(むすめ)なりと云ふと雖(いえど)も、その実、詳らかならず。天文十年正月辰の刻に生まる。
 始めその父母、応仁以来、天下大乱打ち続きて、万民塗炭に苦しむを歎き、「如何にもしてこの兵乱を鎮むべき程の一子を授け給へ」と天地神明に祈請し、丹誠を抽(ぬき)んでけるに、満願の夜、北辰尊星、降りて母の胎内に宿ると夢みて、遂に男子を出生し、幼名を竹松と呼び、後に左近と改む。

 永禄元年、十八歳にして、父母の志願を遂げむが為に諸国修行に立ち出けるが、「この世の乱れを鎮むるは、とても人力の及ぶ所にあらず。唯捨て身の大行を為し、泰平を祈るの外(ほか)無し」と、まず常陸に下りて日拝を勤め、それより和州北大峯の奥、陀津窟(たつくつ)が岩窟(いわや)に入りて大行を勤めけるに、奇(あや)しき老翁来りて、「行者は如何なる願望ありて、こゝに籠るや」と問ふ。
 角行答へて、「我は父母の志願に因りて、天下泰平の願行を勤むる者なり」と云ひければ、「然らば、こゝにて祈らむより、駿河国なる富士山に登りて行法を勤むべし。かの山は国の鎮めと仰ぐべき霊山なり。西方に当たりて人穴(ひとあな)と云ふ所あり、彼処(かしこ)に至りて心身を凝らしなば、心願成就疑ひ無し」と懇(ねんご)ろに教へられければ、角行大いに歓び、この老翁の教へに任せて、転じて駿河国富士郡人穴村に至りて、人穴に籠らむとしけるに、里人これを拒みければ、詮方(せんかた)無く、そこより凡そ三里ばかり南に白糸の滝と云ふ行場あるに行きて、十七日人穴に入らむことを祈り、ある夜秘かに忍び行き、一心を凝らし一命を懸けて穴の中に分け入り、十七日断食して様々の難行苦行を勤めける。

 それよりまた、八湖の大行を勤めむべしとて、天正元年より人穴を立ち出で、近江国琵琶湖に行き、百日の大行を勤め、また裾野に帰り、穴海にて百日、山中三日月の湖にて百日、志比礼(しびれ)の湖にて百日、吉原浮島原にて百日、箱根の根生我湖(ねぶがこ)にて百日、天正三年まで三ヶ年の間、八湖大行果て、それより故国長崎へ帰り、父母の安否を問ひ、これまでの経歴を物語りければ、両親の歓び一方ならず、「尚も大行成就して我等が志願を遂げ得させよ。元来そなたは北辰尊星の化身にして、我が子にして我が子にあらず。天地神明の加護し給へば、願望成就疑ひ無し。今は思ひを残さず」と、甚(いた)く歓びけるが、同四年、父母共に引き続き身退(みまか)りぬ。

 こゝに於て角行自ら引導し、報恩のため百日の大行を勤め、再び長崎を立ち出で、西の方・対馬にて百日の大行を勤め、淡路島にて百日、隠岐国生子湖(うぶこのうみ)にて百日、また近江琵琶湖にて百日大行果て、それより越前国へ行く途中、山路に行き暮れて強盗・斎藤助盛が家に宿り、霊徳を示して助盛を改心させ、これを弟子と為し、名を大法(たいほう)行者と改め、二人相伴ひて諸国を修行し廻り、下野国(しもつけのくに)二荒山(ふたらやま)に分け入りけるが、中禅寺の湖水にて、同国宇都宮の者にて黒野運平と云へる生得(しょうとく)の唖(おし)を癒しけるに、運平もまたその霊徳に伏して門人となり、名を日珀(にちはく)と改め、遂に三人願行怠り無く、相伴ひて奥州なる達谷(たっこく)が岩窟に入りて、十七日の大行を勤め、都合三年の間、日本六十余国の神社仏閣残る方無く巡歴し、天正七年に至り、更に富士の人穴に入りて、三人共に天下泰平の願行を勤めける。

 かくて同十一年七月十三日、徳川家康公、未だ三河守にてありける頃、先穴村(さきあなむら)名主・赤地善左衛門の忠義に依りて危難を遁れ、角行が云ふに任せて不思議の勝利を得し謝礼のため、南光坊一人を従へ、人穴に来(きた)りて面会しければ、角行、数年大行を勤めしこと等物語り、「当時戦国の習ひ、郡国を争ひ、天下を望む者数多(あまた)なれども、孰れも私欲盛んにして、或は殺伐を好み、或は驕奢(きょうしゃ)に長じ、淫酒に耽(ふけ)り、天下の望みを失ふ中に、君一人は仁徳を修め、将士を懐(なず)け、百姓を憐れみ給ふ故に、国人よく帰服すれば、やがて天下を統一して、宸襟(しんきん)を安んじ奉らるべし。猶謹みて慈悲を専らとし、邪を打ち正を助け、天理気運に戻り給ふべからず。我等もまた身を棄て、武運を祈り参らすべし」と云ひければ、家康公も歓喜斜めならず人穴を出て、名主・赤地善左衛門には褒美を取らせけるとぞ。 #0278【『幽界物語』の研究(48) -徳川家康公のこと-】>>

 その後、天正十九年、家康公、関東へ入国の時もまた人穴に入り、元和元年天下統一して、駿府に隠居の後もまた人穴に入り、「行者の行徳に依りて、天下自然に我が手に治まり、上下の歓びこの上無し。行者の功を賞すべければ、何にても望むべし」とありければ、角行色を正し、「我御世の泰平を祈りしは、父母の命に依りて万民を救はん為にして、名聞利欲を思ふにあらず。君が戦場に起臥し、雨に浴し風に梳(くしけ)ずり、千辛万苦せしも、皆これ天下の為にして、徳川一家の為にあらず。然れば、御世泰平に治まりて、我が父母の志願遂げたるも、要するに君が武略に依りてならば、此方(こちら)よりこそ御礼を申すべけれ。今、泰平の世とはなりしかど、治(ち)極まりて乱に入り、乱極まりて治に入る。一治一乱は天理の自然にして、免れ難き所なれば、数百年の後、泰平に誇り、上下奢(おご)りに長じ華美に流れ、更に乱世に至らむとすること、鏡にかけて見るが如し。猶その将来の世を済(すく)ふべき道をも遺し置きて、君の武運の長久を祈るべし。これは我より君への御礼なり」と云ひけるにぞ。

 家康公も愈々感服せられ、「然らば、我が開運の守りと云ひ、この山の神霊なれば、府中に浅間神社を造営して、この恩徳に報ふべし」とて、府中に帰城ありけるが、間も無く大久保彦左衛門を奉行(ぶぎょう)として、約束に違(たが)はず神社を造営ありける。今の府中の浅間神社これなりとぞ。
 角行は永禄元年長崎を出しより、元和元年まで五十八年間大行を勤め、尚一切の報賽(ほうさい)として、四十八日断食の願行を勤め、「日限(にちげん)の中に咳一つだも出さば舌食ひ切りて死すべし」と決定(けつじょう)して、これまた修行を仕遂げるとぞ。

 然るにこの後、江戸に突き倒しと云ふ疫病流行して、病み付く者は三日の間に死す。これに依りて幕府よりも種々治療を施したれど、その効(しるし)無くして助かる者無し。時に角行の行徳知る者ありて、江戸より富士に登山し、人穴に入りてその救ひを乞ひければ、三人の行者、江戸に出て、神符を授けるに、これを受くる者は悉(ことごと)く平癒す。これより人々云ひ合せて、辻々に札を立て神符を施しけるにぞ。

 このこと忽ち江戸中に隠れなく、当時の将軍は台徳院殿(徳川秀忠)にてありけるが、老中よりの沙汰となりて、符水を用ひて病を治するを奇怪なりとし、町奉行・島田治兵衛、米木津(よねぎつ)勘兵衛等、安藤対馬守(つしまのかみ)邸に会合し、三人の行者を召し出して尋ねけるは、「角行、大法、日珀等は、符水を以て疫病を祓ふと聞けり。抑々(そもそも)汝等は神道を行ふか、修験山伏の法を修するか、何を本尊と致すか」とのことなり。

 角行これに答へて、「我々は富士の人穴に於て大行を勤め、御世の静謐(せいひつ)・天下の泰平を祈るを本願とし、人の病難を救ふと雖(いえど)も一紙半銭も貪(むさぼ)らず。素(もと)より宗旨を建立する者にあらざれば、本尊とするもの無し」と答へける。
 この時、土井大炊頭(おおいのかみ)、「医薬も及ばざる難病を符水を以て癒すこと、甚だ以て不審なり。正法には不思議無し。不思議を以て人を迷はすは不屈なり。まず以て三人の者を入牢せしむべし」と云ひければ、これに答へて、「我々は天下の為に大行を勤め、志願空しからずして御世静謐(せいひつ)に治まりたる上は、今更世に望みも無く、存命せむも益無きことなり。入牢になりとも死罪になりとも、唯道理に適ひて邪(よこしま)無きやうに取り計らはるべし。少しも恨むこと無し」と、三人均しく云ひ放ちける。

 その時、本田上野介(こうずけのすけ)これを聞きて、「三人は奇しむべきに似たれども、その申し分神妙にして、咎と見るべきもの無し。罪の疑はしきは軽くせよ」と云へば、「入牢の義は宥免(ゆうめん)ありて暫く預かり置き、重ねて取り調ぶべし」とありければ、各々この一言に決し、角行は土井大炊頭に、大法は酒井雅楽頭(うたのかみ)に、日珀は本田上野介に預けとなり、段々取り調べられたるに、「先年、家康公、人穴に入られたること心当たりあり」とて、三人共に赦免(しゃめん)となり、駿河に帰り、再び人穴に入りて、その後三十二年の間、また大行を勤めけるとぞ。

 かくて角行は正保三年六月三日の辰の刻に、富士の人穴に於て登仙したりと云ふ。時に寿命は百六歳にてありしとぞ。角行、永禄元年より正保三年まで八十九年の間、難行苦行を重ね、捨身の大行を成就し、遂に登仙したるは、珍しき行者と云ふべし。
 その後、日珀・大法の二行者は各々生国(しょうごく)に帰りけるが、大法の子孫は越前に在るべきなれども詳らかならず。日珀の後裔は今猶下野国(しもつけのくに)に歴然たりと云へり。

 厳夫云、本伝は、柴田花守(はなもり)主の編集せる『道祖長谷川角行霊神』と題せる角行の伝記あり、同書を抜粋してこゝに載せたり。この角行の伝記は、花守主が『参鏡磨草(さんきょうみがきぐさ)』、『大行(たいぎょう)之巻』、『不二之道分(ちわき)』及び『大元霊扶桑御柱記(たいげんれいふそうみはしらのき)』、『長崎雑記』を始め、その他数多(あまた)の書を参考して編纂したるものなり。本書には猶種々のことをも記して長文なれども、要無き所は省きて挙げたり。

 抑々(そもそも)この角行が生まるゝ始め、父母誓願満ずるの夜、北辰尊星、降りて母の胎内に宿ると夢みて角行を産みたりと見えたるは、奇怪なるに似たれども、かゝる偉人の生まるゝ時に、然(さ)ることのあるは古来その例少なからざる所なり。
 我が国にては、聖徳太子もその御母・金色比丘(きんいろのびく)、「我に救世の願ひあり、願はくば后の胎に託せん云々」との問答して、躍(おど)りて口中より入ると夢み、孕みて太子を産みたりと云ひ、また釈陽勝(しゃくようしょう)も、同じくその母、日輪を呑むと夢みて懐妊して陽勝を産みたりと云ひ、また楠木正成公も、その母、多聞天(たもんてん)を感ずると夢みて楠公を産みたると伝へ、豊太閤(ほうたいこう)もまた、その母、日輪懐に入ると夢みて秀吉公を産みたりと伝ふ。 #0272【『幽界物語』の研究(42) -仏説について-】>> #0279【『幽界物語』の研究(49) -楠木正成公のこと-】>> #0356【『異境備忘録』の研究(41) -支那仙界-】>>

 また漢土にても、実に数へ尽くされぬ程多かる中の二、三を挙ぐれば、かの關令(かんのれい)尹喜(いんき)が生まれし時も、その母、嘗て昼寝て、天下の降霄(こうしょう)流れてその身を繞(めぐ)ると夢みて喜を産みたりと見え、また張道陵も、母始め、大人(たいじん)、北斗星中より降りて地に至り、長(たけ)一丈余り、繍衣(しょうい)を着、蘅薇香(しょうびこう)を以てこれを授くと夢み、感じて孕むことありて産みたりと伝へ、陶弘景(とうこうけい)も、母、青龍懐より出で、二人の天人傍らに香炉を執ると夢み、孕むことありて生まれたりと云ふ。かゝる類ひ猶多くして数へ尽くし難し。然れば角行もこの類ひの一人にして、生まるゝ始めより奇異を示したる人なり。

 さてその跡を見るに、別に修練する所ありしやうにもあらねど、唯その父母が、「天下の兵乱を鎮めて、万民塗炭の苦しみを救はむ」との大願を立てたる、その志に随ひ、捨身の大行を修めたる者にて、始め和州の北大峯にて大行を勤めけるに、奇しき老翁より富士山に登りて行法を勤めよと勧められ、同山の人穴に籠りて修行したりとあるを思ふに、この奇しき老翁と云ふは必ず一人の神仙なるべし。
 さてはその神仙より何か道を授かりたるか、古語に「知る者は言はず、言ふ者は知らず」と云へることのある如く、知る者は言はざるにより伝はらざるを以て、後世よりこれを詳らかにするに由(よし)無し。但し道はこれを得ること一様ならず、人々に因りて種々異なる所あり。

 かの『列仙全伝』に見えたる漢の荘伯微の如きは、若き時より道を好めども道を求むるの法を知らず、因りて唯、日の入る時を以て西北の方に向ひ目を閉じ握固し、心を静めて崑崙山を見むことを思ふ。怠らずして三十年を積みたり。遂に崑崙山の仙人に見(まみ)ゆることを得て、金液の法を授かり、合せ服して道を得たりとあり。
 また鄂州(がくしゅう)の劉徳本の如きは、大江(たいこう)に往来して商ひを為す者なり。唐の乾符(けんふ)年中、飢饉ありて飢ゆる者多し。徳本、米数万石を散らして飢民(きみん)を活かす。後、黄巣(こうそう)の乱を避けて五老峰の下に居れり。
 ある日、鹿の皮を衣せる道者ありて来り訪(と)ふ。因りて手を握りて共に深き谷に入る。忽ち一人の老人あり、出で云ひけるは、「同じく後院に至るべし」と。丹碧(たんへき)光り輝く。老人指差して云ひけらく、「これはこれ誠に真の洞天なり。汝、善を行ひたるを以ての故に、こゝに至ることを許す」と、遂に見えず。道者もまた「汝が名、既に仙録に上りたり」と云ひて相別れぬ。徳本これより普く名山に遊びけるが、ある日、彩雲降り来りてその身を環繞(めぐ)り、白日に騰昇せり。人呼んで劉仙翁と云ふとあり。

 また『稚川(ちせん)内篇』仙薬の巻に見えたる上黨(じょうとう)の趙瞿(ちょうく)の如きは、癩(らい)を病みて年を経たり。治療を加ふれども癒へずして、死に垂々(なんなん)とせり。ある人の曰く、「病死せざる間に、生きながらにこれを棄つれば子孫に伝染(つた)はらず」と。その家、糧(かて)を持たし送りて山中の岩窟(いわや)の中に置きたり。
 瞿、岩窟の中に在りて自ら不孝を怨み、昼夜悲嘆して月を経たり。一人の仙人あり、来り見てこれを哀れみ、その故を問ふ。瞿、その異人なることを知り、即ち頭叩き自ら述べて哀れみを乞ふ。こゝに於て仙人、一袋の薬を賜ひ、その服する法を教へて去れり。
 瞿、その薬を服すること百日にして疵(きず)総て癒へ、顔色麗しく肌艶々(つやつや)しきの身となれり。時に仙人また来りてこれを見る。瞿、更に生活の恩を受けたるを謝し、且つその薬方を乞へり。仙人これに告げて云ひけらく、「これはこれ松脂(まつやに)のみ。この山中、更にこの物多し。汝これを練りて服せば長生して死ざるべし」と。瞿、即ち家に帰る。

 家人等始めはこれを鬼(ゆうれい)なりとし、甚だ驚けり。瞿、これより永く松脂を服せるに、身体軽く気力百倍し、危(あやうき)を登り険(けわしき)を越へて、終日疲れを知らず。歳百七十に至れども、歯落ちず髪白からず。夜臥して忽ち屋の間に大鏡の如くにして光るものあるを見る。これを左右の者に問ふに、皆「見えず」と云ふ。久しくして漸く大きくなり、一室悉(ことごと)く明にして、夜も猶昼の如し。
 また夜、顔の上に綵女(さいじょ)二人有るを見る。長さ二、三寸ばかり、面体皆具はる。但し小さきのみなり。瞿が口鼻の間に遊戯せり。かくの如きこと凡そ一年ばかり、この二女漸々に大きくなりて瞿が側に在り。また常に琴瑟(きんひつ)の音を聴く。瞿、欣然(きんぜん)として独り笑ふ。瞿、人間(じんかん)に在ること三百年ばかり、色小童の如し。遂に抱犢山(ほうとくさん)に入りて去る。必ず地仙ならむ。
 時に瞿が松脂を服してかくの如くなるを聞きて、人皆競ひてこれを服す。その資力有る者は驢馬(ろば)に負はせ車に載せて運び、室に満ちてこれを服す。未だ一月をだも過ぎざるに、「大いに益有るを覚えず」と云ひて止む。「志無き者はかくの如くなるを得ず」とあり、かゝる類ひの者猶多し。

 然るにこの内、荘伯微は道を求むるの法を知らざるより、崑崙山を感想して道を得、劉徳本は飢饉に米数万石を出して、民の飢ゑを救ひたる善行に因りて道を得、また趙瞿は癩を病み山中に棄てられたるが縁となりて道を得たり。この外、宰相となりて道を得たる者あり、武内宿禰、菅公の如きこれなり。 #0391【『本朝神仙記伝』の研究(9) -竹内宿禰-】>> #0410【『本朝神仙記伝』の研究(28) -菅公-】>>
 巨万の財を積みて道を得た者あり、范蠡(はんれい)これなり。忠死して道を得たる者あり、原隼人佐及び顔真卿(がんしんけい)の如きこれなり。 #0338【『異境備忘録』の研究(23) -神仙界の刑法所-】>> #0431【『本朝神仙記伝』の研究(49) -原隼人佐-】>>
 舟にて釣に出て道を得たる者あり、浦島子及び王可交(おうかこう)の如きこれなり。 #0392【『本朝神仙記伝』の研究(10) -水江浦島子-】>>
 信義を守りて道を得たる者あり、長谷川式部太夫の如きこれなり。その他枚挙に遑あらず。 #0426【『本朝神仙記伝』の研究(44) -長谷川式部太夫-】>>

 然ればこの角行の如きは、父母の大願を継ぎて万民塗炭の苦しみを救はむとて、捨身の大行を勤めて本願を成就し、天下泰平に治まりし後、家康公に答へたる言(ことば)の如き、また突き倒しと云へる疫病流行の時、大法・日珀の二行者と共に江戸に出て、病者を救ひ、却て幕吏の詰責を受けたるに答へたる言の如き、皆至誠神明を感ぜしめざるものなり。
 こゝに於て熟々(つらつら)考ふるに、角行は武士の立てる勲功の如き、世に見るべきの跡をこそ遺さねども、闇々裡(あんあんり)に仁義忠孝の道を尽くしたる大善行の陰徳ありしに因りて、全く神仙得道の身となり、正保三年六月三日を以て、現身(うつしみ)ながら登天したものならむ。実に稀有なる大行者と云ふべし。 #0160【『仙境異聞』の研究(25) -陰徳を積む-】>>

(清風道人云、宮地水位先生の手記に、「真の道士は、道を得れば必ず国民のために力を尽くし、微妙の術を以て貧困の民を救ひ、民に災害する物を厭(はら)ひ除きて、ただ国家の静謐なるを喜ぶ」、また「国のために上は天皇の長命を祈り、中は国の静謐を願ひ、下は群生の安穏を祈りて、ただ四海の平治無恙(むよう)なることを祝ふ」とあります。 #0230【尸解の玄理(9) -求道の真義-】>> )

清風道人

カテゴリ:『本朝神仙記伝』の研究
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