日本古学アカデミー

#00417 2016.5.31
『本朝神仙記伝』の研究(35) -残夢-

 


 残夢(ざんむ)は自ら日白(にっぱく)と呼び、また秋風道人(しゅうふうどうじん)と称せり。僧にあらず、俗にあらず、素より何人(なんびと)たることを詳らかにせず。或は云ふ、常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)ならむと。風顛(ふうてん)の狂漢にして自ら一休を友とし善くして、その禅要を得たりと云へり。
 また時々人と語るに、元暦(げんりゃく)・文治の頃のことを以てし、その時には「義経かゝることを為したり」、また「弁慶はかゝることを為したり」、或は「某(それがし)、このことを為し」、「某、平氏と某所に戦ふ」と、その話殆(ほとん)ど親しくこれを見たる者の如くに云ふ。人怪しみてこれを詰(なじ)れば、即ち答へて「我これを忘れたり」と云ふ。

 残夢、嘗(かつ)て会津の実相寺に住みたることありて、その時には桃林契悟(とうりんけいご)禅師と云ひて、同寺第二十二世の住持(じゅうじ)たりと云へり。
 これより先、残夢所々に住持たりしが、天文年中、那須の雲岩寺より実相寺に来(きた)りて住せりとなり。始め来れる時、こゝに無々(むむ)と云へる者あり、残夢、佐瀬氏なる者と共に訪ねて無々に遇ひぬ。この時残夢が詠める歌に、「なしなしと云ふもいつはり来て見れば、あれはこそあれ元のすがたで」とありければ、無々もまた「なしなしと云ふもことわり我が姿、あることなきのはじめなりけれ」と詠みけるとぞ。かくて残夢静かに云へるやう、「曾我(そが)夜撃ちの翌日一別以来なり」と。無々これを聞きて頷きたるとぞ。
 人、残夢にその歳を問へば「百五、六十なり」と云ふ。怪しみてこれを詰(なじ)れば、即ち答へて「我忘れたり」と云ふ。

 残夢、往々未然を前知することあり。ある時、庫中に銭を置きたるを盗人来りて壁を穿(うが)ちてこれを取らむとせり。残夢早くもこれを知り侍者を呼び、「盗人今我が庫(くら)を穿ちて銭を取らむとしつゝあり。汝疾(と)く行きて銭を与へ、庫を穿たしむることなかれ」と。侍者行きてこれを見るに、果たして残夢が云へる如し。侍者盗人に向ひ、「銭を与ふべし、壁は必ず穿つべからず」と。盗人これを聞きて羞じて逃げ去れり。侍者帰りてその由(よし)を告げれば、残夢は「何とて銭を与へざりし」とて叱りしとなむ。

 また僧・天海及び松雪等も残夢に遇へり。残夢好みて常に枸杞(くこ)飯を食ひけり。天海もまた好みてこれを食ひたり。天海、人に語りて曰く、「残夢が長生せるは、ことを速やかにせざると、枸杞を服せるが故なり」と。
 また会津に鏡を磨ぐ者あり、称して福仙人と云へり。その鏡を磨ぐや、賃金に拘らず、笑ひ語りて終日磨く。甚だ人の問ふを好まず、「研ぎ磨くこと年古くして何すれば、かくの如く磨くことの拙(つたな)きや」と云ふ者あれば、彼即ち答へて曰く、「余(よ)は無心にして磨くなり」と。残夢は福仙人を見て、「彼は義経の旗持ちなり」と云ひ、福仙人は人に語りて「残夢は常陸坊なり」と云へりとぞ。

 また牛墓村に塚あり、伝へて舜岳(しゅんがく)を葬りたる地なりとして、これを舜岳塚と称せり。この塚自ずから焼けること数月に及び、人甚だこれを異とせり。残夢行きて香を焚き、偈(げ)を唱へければ、その火即ち忽ちに滅しけるが、その塚尚今も存すると云へり。
 また残夢ある日葬儀の導師に行きたるに、暴雨迅雷(じんらい)烈しくして、鬼形(きぎょう)のもの火車に乗りて来り、棺を奪ひ去らむとす。残夢声を高くして「これを許せ」と云ひければ、鬼忽ち去りて、天晴(あっぱ)れ夜もまた明けたりと云ふ。

 かくて残夢は天正四年三月二十九日に寂(じゃく)す。嘗て自ら牌を設け、日を刻し名号居諸を書き、衆人を丈室に集め、頌(しょう)を作りて曰く、「堕在無間、五逆聞雷、鳴下瞎黸、死眼豁開」と。
 これに於て筆を擲(なげう)ち棺に入りて寂したりしが、程経て文禄年中に至り、弟子等穴を開きてこれを見しに、只空棺のみににして遺骸は無かりきと云ふ。

 その後、また残夢に三保の松原にて遇ひたる者ありて、源平の昔のことを問ひけるに、残夢は答へて、「今は早、我と共に見し者のあらざるを以て、我が言(こと)を徴(ちょう)する者無けれど、その実、義経は醜男(しゅうだん)にて弁慶は美僧にてありしなり。然るに世間にて称する所は醜美を転倒して伝へたり。この類ひのこと猶多し、故に語ることを得ず」とて語らざりしとなむ。また越後にても残夢に遇へる者ありと云ふ。
 またある伝に、常陸坊海尊は源平の変乱後、東奥の軍(いくさ)より遁れて形を変へ貌(すがた)を易(かえ)て、身を富士山に隠し、数日粒(りょう)を絶ち、飢ゑて死に及ばむとしける時、ふと石上を見るに、髄の飴の如くなるものあり。急に取りてこれを食ひけるに、忽ち精神爽やかなるを覚え、身体軽きこと毛の如し。復(また)飲食を思はず。四百余歳を経て、これに遇へる者あり。即ち道を得て、地仙と成れるべしと云へり。

 厳夫云、本伝は、冒頭より「人怪しみてこれを詰れば、即ち答へて『我これを忘れたり』と云ふ」と云へるまでは、専ら『会津観跡聞老志(かんせきもんろうし)』と『神社考』とに依りて記したり。次に「残夢嘗て会津の実相寺に住みたることありて」と云へるより義経と弁慶の醜美を転倒して伝へたる由を云へるまでは、多く『会津風土記』の実相寺の下に挙げたるを採り、また無々及び福仙人に遇へることは『萩原随筆』にも見え、また残夢が何かのことを未然に前知したることは『新古事談』にも記し、僧・天海及び松雪等に遇へることは『神社考』及び『奥羽観跡聞老志』にも粗(ほぼ)同じ状(さま)に載せたり。

 また残夢と福仙人とが遇へる時のことは『新続古事談』にも記し、舜岳塚のことは『会津旧事(くじ)雑考』にもこれを云ひ、葬事に会して鬼を斥(しりぞ)けたることは『古事談』に、死ぬる前に自ら牌を設け、頌を作り、且つ死後只空棺のみにてありしこと等はこれまた『会津旧事雑考』に、義経と弁慶との醜美を転倒して世には伝へ居ると云へることは『古事談』に、残夢が死したる後に越後国にて遇へる者ありしと云へることは、『萩原随筆』に見えたるを参考して挙げたり。「またある伝に」と云へるより以下は、全く芳原元常の『富獄記(ふがくき)』に依れり。
 この外『会津四家合考(しかごうこう)』には、「一名残夢、また自ら秋風道人と号す。伝へて云ふ、常によく寿永・元暦のことを談ず、即ちこれ義経の臣・常陸坊なり」と云ひ、また『遊方名所略』には、「信濃国埴科郡(はにしなこおり)戸隠山(とがくしやま)に仙人あり、名を秋風道人と云ふ、俗に云ふ常陸坊海尊なり。建久の頃、村里の樵夫(しょうふ)時々これを見たり」と云へることあり、これに依れば残夢は戸隠にも住みしと見えたり。

 また『小窓(しょうそう)雑筆』にも、「寛政五年八月九日、水戸を立ち、野州塩原へ罷(まか)り越し入湯、二十六日罷り返り候(そうろう)。塩原妙雲寺と申す寺に永禄中の人の書にて、見事なるもの御座候(ござそうろう)、常陸坊海尊名を残夢と云ふと申し伝へ候。海尊は仙人に成りて残夢と申し、かの辺りに居る候由、那須の霊厳寺と申す大禅刹(だいぜんさつ)にも残夢の書『東山』の二字の扁額(へんがく)御座候」と見えたり。
 これは本伝に採りたる『会津風土記』に、「会津の実相寺に来るまでは、残夢は那須の雲厳寺に住持したり」とある雲厳寺は、霊厳寺のことにて、霊・雲、字体のよく似たるより写し誤りたるにて、同寺なること疑ひなし。

 然れば塩原の妙雲寺、また那須の霊厳寺等に残夢の書あるは、即ち残夢所々に住持たりしが、ある時にこの寺々に在りて書きしものならむと思はる。
 また『名家吹伝』と云ふ書には、「残夢、号を宝山と云ふ。永禄中、常陸国の福原寺に住職す。年百三十九歳にて逝(せい)す」とも載せたり。猶外にも多かるべし。
 既に釈了意(しゃくのりょうい)の『狗張子(いぬはりこ)』にも、「元亀天正の頃にや、摂津国の島岡彌次郎と云へるが富士に登山して、図らずも常陸坊海尊・一名残夢に遇ひて、芳原元常が『富獄記』に載せたるが如きことを残夢より親しく聞き、且つ枸杞飯をも勧められたる」ことを記し、また『会通雑誌』の百十九号より百二十二号に亘りて、「奥州白河山中地仙塚の由来」と題して、「霊元天皇の貞享年中に、白河の山里にて農民が所有の耕地の側、大雨の為に崩れて横穴のあるを発見し、その中に一小堂ありて、堂の内に六十有余歳に見ゆる老人、黒衣を着て居たるが、これも常陸坊海尊にてありて、種々の問答したる」ことを云へり。
 然ることもありしが、残夢元来仙道を得たる異人なれば、機変出没自在にして、種々の奇跡を遺したれば、かくの如くその伝に異同あるもまた奇(あや)しむに足らざるべし。

 然るにこゝに今猶一言すべきことあり。それは、この残夢が好みて常に食したりと云ふ枸杞のことなり。これはかの稚川(ちせん)翁の『仙薬巻』には、「或は仙人杖と名付け、或は西王母杖と云ひ、或は天精と名付け、或は地骨と名付け、或は枸杞と名付く」と云ひて、草木の薬の中にては求(じゅつ)、黄精(おうせい)、天門冬(てんもんとう)、茯苓(ぶくりょう)、地黄(ぢおう)等と均しく、最も主なる仙薬なり。中に就きてもこの枸杞に、仙人杖と云ひ、西王母杖と云ひ、また天精と云ひ、地骨と云ひ、殊に却老と云へる名さへあるを以ても、その最も良薬たるを知るに足るべし。 #0404【『本朝神仙記伝』の研究(22) -武庫山女仙-】>>

 即ち『本草蒙筌(ほんそうもうせん)』に枸杞の効能を挙げて、「耳目を明(めい)にし神(しん)を安んじ、寒暑に耐へ寿を延ばし、精を添へ髄を固め、骨を健やかにし筋を強くし、陰を滋(ま)して陽衰を致さず、陽を興して常に陽をして挙がらしむ」とあり、残夢及び天海が好んでこれを食して長生を得たるも宜(うべ)ならずや。
 而(しか)して仙人杖と云ひ、西王母杖と云ふは茎の名なり、地骨と云ふは根の名なり、天精と云ふは実の名なり、皆用ひて効験あり。最も得易き仙薬と云ふべし。

(清風道人云、常陸坊海尊は、元は欽明天皇十四(585)年に人間として生まれ、その後再び人間界に出た時の名が常陸坊海尊重行で、義経亡き後、熊野の麗香山仙境で清離仙人と称する山人と成ったことが『幽界物語』に見えますが、何等かの理由で残夢として人間界にも出遊し、期至りて仙境に戻り、遂には地仙より天仙に進位して支那仙界へ上遷されたことが窺われます。 #0244【『幽界物語』の研究(14) -神法道術-】>> #0339【『異境備忘録』の研究(24) -勲功を立てる-】>> #0355【『異境備忘録』の研究(40) -山人の上遷-】>> #0356【『異境備忘録』の研究(41) -支那仙界-】>> )

清風道人

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