日本古学アカデミー

#00401 2016.2.24
『本朝神仙記伝』の研究(19) -養老仙人-

 


 養老仙人はその姓名を詳らかにせず。美濃国多藝郡(たげのこおり)の樵夫(しょうふ)にして、母に仕へて至孝なり。
 元正天皇の霊亀三年、この樵夫の孝咸(こうかん)に因りて同郡多度山より醴泉(れいせん)出(いだ)せり。故に改元ありて、霊亀の年号を改めて養老とせらる。これを以てこの樵夫の孝名、普(あまね)く世に知られたり。然(しか)れども、この樵夫が道を得て神仙となりたることは、未だこれを知る者無かりき。

 然るに後陽成天皇の天正年間に至りて、美濃国本巣郡に草野某(なにがし)と云ふ者あり。元は官禄ある武家の末族なりしが、四歳の時父を失ひ、家甚だ衰へ困窮しければ、成長の後、京都に上りて西園寺殿に奉公し居たりける。
 ある時故郷の母の方より、「病み煩ひ居れば、急ぎ帰国すべし」と告げ越したるにぞ、主君に暇(いとま)を乞ひ、故郷に赴く所に、この時豊臣秀吉、(織田)信孝・(柴田)勝家等を責められ、美濃・尾張の間、合戦闘争止むこと無き折ふしなれば、草野僅かに携へたる物皆盗賊に奪はれ、漸々(ようよう)危き命のみ助かりて家に帰る。
 老母の歓び一方(ひとかた)ならず。「先頃より胸痛み食勧まず、頼み少なく覚えしより呼び下せしなり」と云ふ。草野、「疾(と)く帰るべきを、道中兵乱の為、往来心に任せず。遅なはりぬ」とて、懐中より薬を出して母に与へ、これより昼夜看病し、孝行を尽くしける。家貧しければ飯・野菜のみにて、美味を進むる便なきを歎き、母の病間ある時は近郷に出て人に雇はれ、その賃を取り、聊(いささ)か魚肉等調(ととの)へ勧めける。
 かくて二年余り、少しも怠りなく労(いた)はりけるが、遂に死にける。草野大に歎き悲しみ、飲食口に入らず痩せ衰へ、唯明け暮れ伏し沈みて泣き居たり。

 程経て後ある日、当国の国司と覚しき貴人、衣服太刀等華やかに出(いで)立ち、月毛の馬に乗り、供人二十人ばかり引きぐし、草野が門に来り。
 馬より降りて内に入り、泣き悲しめる草野に向ひ、「汝、孝行の誠ありて、親の死を悲しむこと至れり。然れども哀傷の心編にして、その限りを知らざれば、父母の遺体を損なひて却て不孝にやなりなむ。いざ此方(こなた)へ来るべし。教ふべきことあり」とて伴ひ出給ひ、遥かに東の方二里ばかり行きて、瀧壺の傍(そば)なる綺麗なる亭に入り給へば、家人扈従(こじゅう)の者ども、門外に出迎う。草野恐れかゞみて進みかねたるを、貴人押して座上に居(す)へ、銚子、土器(かわらけ)、数々の隹肴(かこう)を列(つらね)て饗応(きょうおう)し給ふ。

 草野、甚(いと)奇(あやし)みて貴人に向ひ、「君はこの国の国司と見ゆ。某(それがし)は元来辺鄙(へんぴ)の土民なり。何故かゝる高堂に上らしめ給ふらむ」と云ふ。
 貴人答へて、「汝、誠に匹夫(ひっぷ)にして賤しと雖(いえど)も、孝行の徳、冥慮に通じ、今この瀧の下に連れ来り。こゝは元より霊場にして、神仙鎮護の名瀧(めいろう)なり。我また世の常の人にあらず、いでやその由来を語り聞かすべし。昔、人皇四十四代・元正天皇の御宇に、当国多藝郡に一人の民あり。極めて老母に孝行なり。老母、常に酒を好めり。民、日毎に薪を取り、酒にかへて老母に勧む。ある年の冬、大雪降りて、山に入りて薪を取ること能(あた)はず。酒を買ふべき便り無し。民、憂ひ嘆きてこの瀧の流れを臨むに、酒の薫りあり。奇(あやし)みながら飲み試みるに、正しく酒にてぞありける。大いに悦び汲み運びて、心の儘に母に勧め養ひしかば、この酒即ち長生不死の仙薬にて、母暫くの間に老ひを変じて若やぎ、白髪忽ち黒くなりたる。遂に汲めども尽きぬ酒の泉を保ちて、一家富み栄えぬ。国人、『例(ためし)なき祥瑞(しょうずい)なり』とて、朝廷に奏聞(そうもん)せしかば、霊亀三年九月、天皇美濃国に行幸在らせられ、御親(みみずか)らこの泉に臨ませ給ひ、この瀧の水よく老母を養ひしとて、『養老の瀧』と号せられ、同年十一月には霊亀の年号をさへ養老と改められ、かの民をば厚く賞し給ひける。然れば、かの民と云ふは即ち我がことなり。これ全く我が孝行の徳に因りて神仙の冥助を蒙り、かくの如きに至りたるものなれば、我世を去りてより此降(このかた)、永くこの養老の瀧の下に住みて当国守護の神となり、国中の人の善悪を鑑(かんが)み賞罰を行ふ。汝既に親に孝行なること、我昔の孝行に近し。この故に同声相応じ、同気相求めてかく招待せるなり。何か苦しかるべき。唯打ち解けて酒を飲み、精神を養ふべし」とて、家臣に命じて舞楽を奏し、今様(いまよう)を歌はしむ。興に乗じ酒闌(たけなわ)にして、面白さ限り無し。

 時に山廻りの奉行こゝを過(よぎ)り、遥かに酒宴舞楽の声を聞き、「かゝる人倫絶へたる深山に酒宴有るべきやうなし、いかさまこれは山賊どもの集り来て、密かに宴を張るものならむ。急に討ち取るべし」と、物具固め手配りして、まず四方より鉄砲を数十丁打ちかけ、近寄りて見れば何も無し。唯草野一人呆然として座し居たり。
 山廻りども呆れて子細(しさい)に問へば、草野、「かくかくの次第にて有りき」と語りしに依りて、かの養老の昔の孝子が神仙と成りて、今も猶こゝの幽境に在ることを、世人も知ることゝはなりしとぞ。
 かくて草野は、この後も常々この瀧の下に通ひてかの神仙に出逢ひ、種々の法術を授かり、修練効積りて仙道を成就し、遂に飛行自在の身と成りて行方知らずなりしと云へり。

 厳夫云、本伝は『玉櫛笥』に載せたるを、『続日本紀』、『十訓抄』、『古今著聞集』等を参考してこゝに挙げたり。(中略)
 熟々(つらつら)案ずるに、神仙の語中に「この酒即ち長生不死の仙薬にて云々」と云へるは、誠に然ることゝ思はる。それはかの漢の東方朔が著に係る『十洲記』に、「瀛州(えいしゅう)は東海の中に在り、地方四千里、大抵これ会稽(かいけい)に対す。西岸を去ること七十万里、上に神芝仙草を生(しょう)す。また玉石(ぎょくせき)あり、高さ千丈、泉を出す。酒の如くにして味ひ甘し。これを名付けて玉醴泉(ぎょくれいせん)と為す。これを飲むこと数升なれば、即ち酔ふて人をして長生せしむ」とあり。
 この瀛州は、蓬莱、方丈と共に三神山と称せらるゝ仙境なり。然るにその瀛州に有る玉醴泉も、人をして長生せしむとありて仙薬ならば、養老の醴泉もこれと均しき仙薬なること、固より云ふを待たず。然ればかの孝子も、唯老母に飲ませたるのみならず、自らも汲みてこれを飲みしを以て、不老不死の神仙とは成れるべし。

 但し醴とは、甘酒または一夜酒(いちやざけ)と云ふ物のことなり。それは『釈名』に、「醴は禮(礼)なり。これを醸(かも)して一夜にして醴と成る。酒の味ひ有るのみ」と云ひ、また『前漢書』の楚の元王の伝にも、「元王、置酒する毎に、常に穆生(ぼくせい)の為に醴を設く」とある所の師古の註に、「醴は甘酒なり。麹を少なくし、米を多くして、一夜にして熟す」とあり、醴の所謂(いわゆる)甘酒即ち一夜酒なること明らかなり。
 而(しか)してかの泉を醴泉と名付けたる由は、『廣韻』に「醴泉は美泉なり。状(かたち)醴酒の如し。老ひを養ふべし」とあれば、その泉のよく醴酒に似たるにより、かくは名付けしものと知るべし。

(清風道人云、孝心の深い者が神仙によって導かれた実例は数多存し、また宮地水位先生の手記にも、「報本反始親に事(つか)へ、天に仕へ、君王に忠貞を尽くし、長(とこし)へにこの世にありて、道のため国のために報ゆる身なれば、生を養ひ疾病を避け、その命を保愛し、天一真君(てんいつしんくん)の元気を守り、身を立て、道を行ひ、永く天神に仕へ奉る。これ所謂(いわゆる)人の真道なり」とあります。 #0159【『仙境異聞』の研究(24) -人の真道とは?-】>> #0315【怪異実話(31) -神の出雲参集の伴をした人のこと-】>> )

清風道人

カテゴリ:『本朝神仙記伝』の研究
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