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#0066 2010.11.15 |
気力を充実させる法
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平田篤胤先生は、西洋医学に精通した医学者でもありましたが、もちろんこのあたりのことにも触れられており、 #0064【臍の霊的存在意義】>> #0065【玄気があれば何でもできる】>> 先生が極めて通俗的に養生の法を述べた『志都之石屋(しずのいわや)』の一節を引用したいと思います。
「臍(へそ)の下に気海(きかい)という名の所があるのも、「人が鼻より受ける気をしっかりとそこに湛(たた)えてあるように」という義(こころ)で名付けられたものです。『難経(なんぎょう)』(古代中国の東晋時代に編纂された最も古い医学書)という医書にも、「生気の源は腎間の動気なり、邪より守る神と名付く」とありますが、人が生きている気の元というのは臍下の動気のある所のことです。これをなぜ「腎間の動気」というかといえば、腎臓は左右に二つあり、気海の所はその中間に当たっているため「腎間の動気」といいます。また「邪より守る神と名付く」というのは、ここの所に気が満ちていれば、外からの邪に犯されず、内より病が起こらないという意味です。ですから、邪神に憑(つ)かれるのも、狐や狸の類に化かされるのも、この「邪より守る神」がない隙(すき)を付け込まれたためです。 #0044【祈りのメカニズム(4)】>> これほど大事な所であるため、医書という医書はもとより、諸道諸業いずれもここに気を湛(たた)えて蓄えることを諭(さと)し、まず天竺(インド)では釈迦よりも遥か昔より学び来たバラモンの修行も、心をここに治める修行であり、また釈迦が修した行もこれに他なりません。また唐土(もろこし、中国)の神仙の道を伝えたという道教の修行もこれで、ここに気が集まれば無病となり長寿を保つという義(こころ)で、この修行を不老不死の術などともいうのです。気海の下の所を丹田というのも、不老不死の丹薬を蓄える田という義で名付けられたのでしょう。 さて、臍下へ気を練りたたむ修法は種々ありますが、一番手短な修法があります。わたしの父は八十余(やそまり)四つの歳(84歳)まで寿を保たれましたが、若かりし頃は殊のほか多病でした。しかしある老人にある法を習い、三十余の時より折節(せつせつ)となくこの術を行って、この齢(よわい)になるまで無病でした。「そのほう(平田先生のこと)もこれに習え」と教えられたのですが、実にこれは無病長寿の奇術であること疑いありません。 その方法は、毎晩寝床に入って眠りにつく前に、仰向きで両足をそろえて強く踏み伸ばし、総身の元気を臍のあたりから気海丹田の穴及び腰や足の裏まで満たし、他の妄想をさらりと止めて、指を折り息を数えること百息にして、その踏みしめた力を緩め、しばらくしてまた同じようにして、この術を欠かさず修すること月に五日から七日ずつすれば、元気が総身に満ちて腹中の癪塊(しゃくかい、不快感)も皆溶け、いかなる良薬もこの術を超えるものはありません。「そのために我は老に及ぶまでこのように無病なり」と腹を出して見せられたところ、鳩尾(みぞおち)の所から臍下の張って固きこと、こつこつと音がするようでした。」
ただし、平田先生のこの実修法式については、人それぞれ体質や健康の相違があり、一律にこれを守ることはどうかとも考えます。そこでこの実修方式に註釈を加えるという意味で、佚斎樗山(いっさいちょざん)先生(1569-1741)の『収気之術』によって補説してみたいと思います。
「まず仰向けに寝て肩を崩し、胸と肩とを左右に開き、手足を心のままに伸ばし、手を臍のあたりに置き、悠々として万慮を忘れ、とやかく心を用いることなく気の滞りを解き、気を引き下げ、指の先までも気が行き渡るように総身に満たし、呼吸の息を数えはじめると、はじめの内は呼吸が荒いこともありますが、やがて呼吸が平らかになる時、気を活かして天地に満ちるようにします。息を詰めて気を張るのではなく、気を内に満たして活かすのです。 この時に積集の病のある者は、胸腹の間その病のある所が必ずだるく気味悪しきものです。これがつまり、集まり凝った気が融和しようとして動き出すのです。また、腹の内で鳴るものもあります。この時、多くは腹の内の気味悪しきに驚いて止めてしまいますが、その時は掌(てのひら)で柔らかに押さえます。強くひねる時は、動じる邪気に逆らい、かえって鎮まらないもので、甚だしく突き上げる時はなおさらです。 総じて腹の上、一ヶ所に久しく手を置く時は、気がそこへ集まります。肩と胸を開くことは大切です。両方の肩を抜き出すように開く時は、気が伸びるものです。これは形を以て気を開く術です。気が滞る時は心も滞ります。また、心が滞る時は気も滞る。つまり心気は一体であり、この術はまず気の滞りを解いて、心を平らかにする術です。」
平田先生の実修法にせよ、佚斎先生の実修法にせよ、要は身体の余計な力を抜き、心を鎮めてリラックスした状態で気を全身に巡らすことによって、「魂が魄を制した」状態に心身を保ち、「気力」を充実させる方法であることが判ります。 #0015【人間の本性は善か悪か?(1)】>> #0016【人間の本性は善か悪か?(2)】>> #0017【心の中の葛藤とは?】>> #0027【ビッグバン以前の宇宙】>> #0028【霊・気・質の関係】>> |
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▼関連記事一覧 |
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#0027 2010.4.23
ビッグバン以前の宇宙
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日本古学では、ビッグバンのことを「天地開闢(てんちかいびゃく)」と呼んでいますが、それでは開闢以前の宇宙は、はたしてどのようなものだったのでしょうか? 言葉にするならば、前宇宙なるものは、始めもなく終わりもなく、無量無辺であるために、東西南北の別もなく、時間や空間を測ることもできず、遠近上下前後の別もないものということになるでしょう。今日の
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#0016 2010.2.22
人間の本性は善か悪か?(2)
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また、魂のはたらきを性(やまとことばではココロネ)といい、魄のはたらきを情ともいいますが、これだけ聞くと、情というものは悪しきものであると思われるかもしれませんが、決してそういうわけではありません。 性にしたがう情であれば、つまり魄が魂にしたがっているわけですから、これは人間にとって最も善い状態といえるでしょう。しかし性にしたがわない情は、
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#0015 2010.2.17
人間の本性は善か悪か?(1)
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人間の本性が善であるか悪であるかについては、主に儒教などで語られてきましたが、日本古学では次のように説かれています。
実は人間の霊魂の活用には、魂(こん)と魄(はく)の二種類の区別があります。魂魄(こんぱく)というのは漢字の音読みですが、これをやまとことばでは、魂を「みたま」あるいは「をだましひ」、魄を「みかげ」あるいは「めだましひ」と
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